ヘブル7章1〜25節「私たちを完全に救うことができる大祭司」

2019年3月3日 

人は何かのすばらしさを説明する時、「あれにはこのような問題があったけれども、これは、このような点ではるかにまさっている」というように、以前の問題点を明らかにしながら良い物を提示するという発想が身についています。そのような発想で、「旧約には大昔の厳しい教えがあるけれど、新約には神の優しがが満ちている……」などと言われることがあります。そのうちに、「新約聖書と詩篇だけあれば神様のことは分かります。救いの基本とは、イエス様を信じることで罪が赦され、たましいが天国に憩うということですから……」と、福音を過度に単純化しかねません。

そのように解釈する人は、イエスが「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するためにきたのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します……あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(マタイ5:17-20)と言われたことをどのように解釈するのでしょう。

イエスは、旧約を成就する方なのですから、成就すべき教えの内容が分からなければ「救い」は分からないはずです。パリサイ人は当時、ある意味で模範的な市民でしたから、その義にまさるということが何なのかを知らなければ、「聖書を読んでもかえって息苦しくなるだけ……」ということになりかねません。

実は、旧約にはすばらしい教えが満ち満ちています。それにさらにまさっているのが新約の福音です。イエスは旧約の大祭司より、もっとすぐれた大祭司だからこそ、あなたを完全に救うことがおできになるのです。

1.「生きていると証しされている」メルキゼデクに倣う大祭司

7章1節の「このメルキゼデクは……」という書き出しは、6章20節、また5章6-10節の記述を受けてのことですが、その背後には、著者が、詩篇110篇を深く思い巡らしていたということがあります。実はこの詩篇は新約聖書に最も多く引用される旧約のことばの一つです。

そこではキリストが「神の右の座に着いて」世界を治めておられる方であることと同時に、主(ヤハウェ)がキリストに関して「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である」と「誓われた」ということが記されています(4節)。メルキゼデクという名は、旧約ではこの詩篇と創世記14章18-20節の二か所しか登場しない、不思議な存在です。しかし、アロンの子孫の大祭司職と比較するためには、このメルキゼデクという名は決定的な意味を持ちます。

まず、著者は創世記の記事から、メルキゼデクが「サレムの王」であると紹介します。サレムとは詩篇76篇2節によればエルサレムの短縮した名前です。また、「いと高き神の祭司」であったと紹介されます。

そして、彼が登場するのは、アブラハムが甥のロトを救い出すために北の四人の王の連合軍を打ち破って凱旋したときのことです。彼はアブラハムを「出迎えて祝福し」、「アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与え」たと、ほぼ創世記のことばのままに記されます(7:1,2)。

そして、ヘブル語のメルキゼデクという名が、「義の王」という意味を持つとともに、「サレムの王」とは「平和の王」という意味があると説明されます。ここまでは創世記の記述の解釈ですが、この後は著者が聖霊に示されて記すことです。

3節では、「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです」と記されます。これは旧約の祭司職においては系図が何よりも大切な意味を持つのにも関わらず、創世記では彼に関して、「いと高き神の祭司」としか記されていないことの意味を説明したものと言えます。

彼は明らかに、私たちと同じような人間ではありません。それどころか、「いのちの終わりもなく、神の子に似た者」であるばかりか、永遠に「祭司に留まり続けている」という不思議なことが記されています。そこにアロンの子孫の大祭司との対比が描かれます。

そしてメルキゼデクの偉大さが、神の民イスラエルの「族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました」(4節)と描かれます。

続けて、律法に記された「十分の一」の意味を、「レビの子らの中で祭司職を受ける者たち」が、「同じアブラハムの子孫である……自分の兄弟たちから」受けるものであると説明します(5節)。その上で、メルキゼデクの場合は「レビの子らの系図につながっていない」にも関わらず、族長の「アブラハムから十分の一を受け取り……アブラハムを祝福し」たと、モーセの律法では説明できないことが起きたと述べます。

その上で、「より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受ける」という原則から、メルキゼデクはアブラハムよりも、「よりすぐれた者」であると解説されます(7節)。

そして8節では、レビの子らが「死ぬべき者」として「十分の一」を受けている一方で、メルキゼデクにおいては「生きていると証しされている」として受けていると不思議なことが記されています。これは、詩篇110篇4節をもとに、この3節でも「いつまでも祭司として留まっている」と描かれていることをもとに記されたことです。とにかくメルキゼデクは(今も)生きている」と「証しされている」というのです。

そして続けて、レビの子らはアブラハムの子としてメルキゼデクに十分の一をささげた側になると説明し、メルキゼデクはレビの子らが生まれる前から存在し、アブラハムを祝福した「よりすぐれた者」であると説明されます。

イエスの時代のユダヤ人にとっては、「レビの子らの系図につながっていない者」が祭司になるということは考えられないことでしたが、著者は、モーセの律法以前の神の契約に人々の目を向けさせたのです。律法の解釈で行き詰まったとき、律法が与えられる以前に立ち返って解釈することは何よりも大切です。

2.「もっとすぐれた希望によって、神に近づく」

7章11節の原文の語順は、「もし、完全さがレビ族の祭司職によって存在しているとするならー民はそれによって律法を与えられたのですがーそれ以上、何の必要があって、メルキゼデクに倣って、と言われる別の祭司が起こされたのでしょうか、アロンに倣って、と言われるのではなく」となっています。

この「完全さ」が何を意味するかについては様々な解釈がありましょうが、6章19節に描かれた「幕の内側にまで入って行く」という「希望」を指すと考えるべきでしょう。祭司職は神と人との仲介者として存在しますが、私たちがこのままで契約の箱が置かれていた至聖所にまで入って行くという「完全さ」が、アロンに倣った大祭司職によっては達成できなかったことは明らかでした。そのために、メルキゼデクに倣った、永遠の大祭司が起こされる必要があり、イエスの十字架の死によって神殿の幕が除かれることになったのです。

12節では、先の「別の祭司が起こされた……アロンに倣って、と言われるのではなく」ということばを受けて、「祭司職が変えられたのであれば、律法の変化も必要になります」と記されます。

これは律法の文言というよりは、律法の運用に関して新たな解釈が可能になるとも理解できましょう。イエスご自身も「律法の一点一画も決して消え去る(過ぎ去る)ことはありません」(マタイ5:18)と語っておられるからです。

そして13,14節では、「私たちの主がユダ族から出られた」ことからすれば、モーセの律法では祭司になり得ないはずであるという趣旨のことが記されます。

そして15節では、「以上のことはますます明らかになります」ということばから始まり、「もしメルキゼデクと同じような、別の祭司が起こされるなら」と記されています。この「起こされる」とは、使徒2章24節などのように「死から…よみがえらせる」という復活に用いられることばです。

これは先の11節でも同じことばで、単に祭司として「立てられた」ことだけを意味しているとも考えられます。しかし、続く16節では、「その方は、肉に基づく規程の律法によってではなく、朽ちることのないいのちの力によって祭司となったのです」と記されていることとの関係で考えると、まさにイエスは「いのちの力」によって、死人の中からよみがえり、メルキゼデクの例に倣う祭司として「起こされた」ということが分かります。

その上でそのことが詩篇110篇4節の「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえの祭司である」と「証しされている」とおりであると結論付けられます。このみことばは先の述べたように、すでに5章6節に引用されているもので、ここでの議論の背後にずっと明確にあったものです。

18節の原文の語順では、「なぜなら一方で、無効にされたからです。前の規定は、その弱さと無益さのために」と記されています。注意しなければならないのは、「無効にされた」のは、旧約の戒め全般ではなく、あくまでも祭司職がアロンの子孫でなければならないという「規定に過ぎないということです。

そして19節では続けて、「それは、律法が何一つ完全にはしなかったからです。もう一方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。それによって、私たちは神に近づくのです」と記されています。

これは11節で描かれた「完全さ」と同じ意味です。問われているのは、律法によっては、罪ある肉のままの人間が、そのままで聖なる神の御前に立つことができるという意味での「完全さ」は達成できないという意味です。

ここでは、モーセ五書を中心とした「律法」自体が「完全ではなかった」というのではなく、「完全にはしなかった(全うしなかった)」と記されています。律法は、神を恐れることを教えるものでした。ですから、主(ヤハウェ)がシナイ山の頂に降りて来られたとき、主(ヤハウェ)はモーセに「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主(ヤハウェ)の方に押し破ってきて、多くの者が滅びることのないように」と言われました(出エジ19:21)。それは、私たちが太陽に近づきすぎると瞬間的に蒸発してしまうと同じように、肉なる者が安易に聖なる神に近づくことで、滅びを招いてしまうからです。

そして、レビ記の規定の中心は、聖なる神が、罪に汚れた人間の交わりのただ中に、どのようにして住むことができるかを教えることにありました。たとえば年に一度の大贖罪の日に、大祭司が神の幕屋の至聖所に血を携えて入ることの目的は、人間の罪によって汚された幕屋を、いのちの血によって聖めるためでした。それによって神が民の真ん中に住むことが可能になるからでした。

つまり、当時の祭司職は、聖なる神が汚れた民の真ん中に住むことができるための聖めを行っていたのです。そして、神が民の真ん中に住むことができておられたとき、神の民は圧倒的な異邦人の敵にも負けることなく、飢えてもパンが天から降り、岩からは水が湧き出ました。

その意味では、旧約時代の律法は十分に機能していた時代があったのであり、すべてが「弱く、無益」だったわけではありません。問題が起きたのは、民の偶像礼拝によって、神が聖所に住むことができなくなってからでした。

今は、神の御子であるイエスが「永遠の贖い」を成し遂げてくださったので、そのような祭司の働きは不要になりました。ですから、18,19節の記述を、旧約の律法全体が「弱く、無益なために廃止された。律法は何も全うすることができなかった」という意味に解釈してはなりません。

無効に(廃止)された規定(戒め)とは、祭司、また礼拝に関わる規定のことです。これは実は、私たちが現在、当然のように感じ、実行していることでもあります。分かり易い例を言えば、レビ記の規定によれば、神の民は、豚肉を食べることも、脂肪に満ちた血の滴るようなステーキを食べることも、海老も蟹も食べることはできませんでした。

それは神の民を他の偶像礼拝の民から分離し、聖く保つために大切な教えでしたが、イエスが永遠の贖いを成し遂げ、「一切のものが、キリストにあって(をかしらにとして)、一つに集められる」(エペソ1:10)という新約の時代にあっては、不要とされました。

たとえば使徒の働き10章では、ペテロイタリア隊の百人隊長コルネリウスの家に招かれて一緒の食事ができるためには、神からの特別な啓示が必要になりました。異邦人とユダヤ人が、キリストにあって一つとされることこそ、福音の核心ですが、「律法はそれを全うすることはできなかった」のです。

古代教会の教父たちは先のみことばをもとに「キリストをかしらとしてすべてが再統合される(recapitulation)」という神学概念を大切にしていました。しかし、従来の福音派は、分離を強調しすぎる傾向があるかもしれません。

もう一度、モーセの律法が与えられた当時の文脈に立ち返って、律法がどのような意味での「完全さ」を達成しようとはしなかったのかということを見直す必要があります。

モーセの時代は、分離が大切でしたが、キリストにあっては再統合こそがテーマになっています。ありとあらゆる種類の海産物を好む日本人が神の民となることができるのは、このヘブル書の記述によっているとも解釈することができます。ですからこの箇所は私たちにとって大変身近なみことばなのです。

3.「ご自分によって神に近づく人々を完全に、永遠に救うことができる方」

20,21節は、交差構造になっており、「その上。これは誓いなしになったことではありません。彼らは誓いなしに祭司になったのですが、この方は誓いによってなられました。それは、彼にこう言われたことによるのです」と記されています。

ここでは、「誓い」ということばが三度も繰り返されながら、イエスが神の「誓い」によって、「メルキゼデクの例に倣う、とこしえの大祭司となられた」ことが強調されます。

その上で、神の誓いのことばが、再び詩篇110篇4節から、「主は誓われた。思い直されることはない。あなたはとこしえに祭司である」と引用されます。ここでは、「メルキゼデクの例に倣い」ということばが省かれながら、イエスが永遠の大祭司となられたということが強調されます。

そればかりか22節では、「それにさらに加えて、イエスは、もっとすぐれた契約の保証となられたのです」と記されます。「もっとすぐれた契約」に関しては、続く8章で詳しく述べられますが、それはエレミヤ31章31-34節に記された聖霊預言を指します。

さらに23節の原文では、「先の場合は大勢の者たちが祭司になっていた」と記され、その理由が、「死ということのため、いつまでも務めに留まることができないから」と記されます。それとの対比で、24節では、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます」と記されています。

この背後には、15、16節に記されていた、死人の中から起き上がっていのちの力によって祭司となられたという、イエスの復活があります。それはイエスのたましいが不滅であるなどというより、はるかに偉大な「救い」、2章14,15節の「イエスがご自分の死によって、死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放してくださったという「救い」があります。

イエスの十字架は復活とセットになって理解され、死の力を滅ぼす圧倒的な「いのちの力」と解釈されているのです。

それを前提に25節の原文の順番では、「したがってイエスは、人々を完全に永遠に救うことがおできになります、ご自分によって神に近づく人々を。それはこの方がいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」と記されています。

ここでは「完全に救う」という以上のこと、「完全に、永遠に救う」ということが記されていると解釈できます。このことばは11節の「完全さ」、19節の「全うする(完全にする)」よりもさらに強調された、「全面的な完全さ」とも訳されることばだからです。

ここにはイエスが「アロンに倣っての大祭司」ではなく、「メルキゼデクに倣う大祭司」であることの偉大さが強調されています。

旧約の「すばらしい救い」のご計画が、新約においては「さらにまさった素晴らしい救い」となることを旧約と新約での似た表現のから比較することができます。

たとえば出エジプト記19章5,6節では、イスラエルの民が律法を守ることによって、世界中の人々から神のの民としてのすばらしさを認められ、それによって世界中の人々がイスラエルの神を礼拝することになると約束されていました。

一方、新約のペテロの手紙2章9節では、私たち一人ひとりが「王なる祭司」として、「闇の中から……驚くべき光の中に」すでに移されているという喜びを心から味わい、「そのように召してくださった方の栄誉を」、周りの人々の告げ知らせることができると記されています。

王なる祭司」とは、「神とキリストの祭司となること」と、「キリストとともに王として治める」ことを指します(黙示20:6)。つまり、私たちは「永遠の大祭司」、「永遠の王」となられたイエスにつながることによって、全世界の人々を神に結び付け、またこの世界に神の平和を広げる王の立場が与えられるのです。

これこそ「キリストをかしらとする再統合」に他なりません。何という名誉な使命でしょう。それはアロンダビデの二つの立場を、私たち一人一人が与えられることを意味します。

旧約の物語は、逃亡奴隷の集団に過ぎなかった弱小民族に神の律法が与えられて、世界最高のダビデ王国が築かれ、その後、彼らが、世界中の人々にイスラエルの神の偉大さを紹介する民となったという物語です。

そして新約の物語は、「この世の取るに足りない者や見下されている者を神は選ばれ」(Ⅰコリント1:28)、彼らをキリストに結びつく「王なる祭司」とされ、この世界に遣わして、この世界を神の平和(シャローム)で満たすという物語です。

私たちは旧約の偉大さを知れば知るほど、新約に与えられた救いと使命の偉大さをより深く味わうことができるのです。イエスはご自分によって神に近づく人々を完全に、永遠に救うことができる永遠の大祭司であり、私たちをご自身の「王なる祭司」としてくださることを、心からの感謝をもって受け止めましょう。救いの偉大さを覚えることと、新しい使命を覚えることはセットとなっています。