詩篇132篇「主の安息の場から広がる祝福」

2019年2月17日 

この詩篇の表題の「都上りの歌」というのは詩篇120篇から134篇までの15の詩篇についており、当時はエルサレム神殿への巡礼の歌と理解されていました。

最近、天に召されたユージン・ピーターソンの代表作の一つにこの15の詩篇の解説がありますが、そのタイトルが「A long obedience in the same direction(一つの方向に向かっての長い従順)」となっていますが、それはもともと、哲学者フリードリッヒ・ニーチェの以下の言葉からの引用です。

「天においても地においても、本質的なことは……長い間、一つの方向に従順であり続けることだ。それによってこそ数々の結果が生まれる。それは、いつも長期間を必要とするが、この地上の人生を生きるに値するものとする何かが生まれる。それはたとえば、徳、芸術、音楽、舞踏、理性、霊性といった、何かしら浄化するもの、洗練された、卓越したもの、神的なものだ」

ニーチェは、キリスト教が安易な赦しと希望を与え、人間を全体的に退化させる奴隷の宗教となっていると非難しました。ピーターソンは、現代のキリスト教がインスタントな解決を求める社会の動きに同調してはいないかと問うため、敢えてニーチェの言葉を信仰者の巡礼の旅のタイトルにしました。

ユージン・ピーターソン

信仰者の歩みは、天上のエルサレムを目指すものです。確かに、終わりの日にエルサレムはこの地に下ってくるのですが、私たちは「この地上では旅人であり、寄留者であることを告白」しながら生きざるを得ません(ヘブル11:13)。しかし、同時にその旅路では、何かしら生きるに値するものを見ることが許されています。ただそれは、一時的な恍惚体験のようなものというよりは、日常生活に現わされる神の祝福の現実と言えましょう。

1.主(ヤハウェ)へのダビデの誓いから始まった神殿建設

最初のことばは、「(ヤハウェ)よ、ダビデのために 彼のすべての苦しみを思い出してください」と記されます。この「苦しみ」ということばを用いて、かつてダビデは、「見なさい。私は困難な中で(ヤハウェ)の宮のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した」と語っています(Ⅰ歴代22:14)。

これはダビデが、戦いに次ぐ戦いの中で、必死に、主(ヤハウェ)の宮の建設のための準備をしたことを指します。ちなみに、単純な比較はできないにしても、ここに記された金銀の量を現代の価格で算定すると19兆円になり、日本の一年間の税収の三分の一に相当する膨大な金額です。これはダビデが自分の生涯をエルサレム神殿の建設のために献げていたことを意味します。

歴史的にはエルサレム神殿を建設したのはソロモンであると見られますが、歴代誌ではダビデの功績が、サウルの時代には顧みられなかった「神の箱」をエルサレムに運び入れ(13:3)、四千人もの人が楽器を手にして主を賛美するという形を整え(23:5)、多くの詩篇を記したことなどとして描かれ、神殿建設が実はダビデの最大の働きであったという点に焦点が合わされます。

2節は、「彼は主(ヤハウェ)に誓いました。ヤコブの力強き方に誓願を立てました」と訳すことができ、「誓った」、また「誓願を立てた」という似た意味で異なったことばの繰り返しが見られます。

そして3-5節ではその内容が、「(ヤハウェ)の……御住まいを……見出すまで」は、自分の家に入って眠ることさえもしないという覚悟が描かれます。そこでは具体的に、「私は決して 私の家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみさえ。主(ヤハウェ)のために 一つの場所を ヤコブの力強き方のために 御住まいを 私が見出すまでは」と驚くべきことが記されています。これは現代的には、「不眠不休の覚悟で、神殿建設の準備に励む」という意味と言えます。

ただし、「御住まいを 私が見出す」と記されていますが、実際に神殿になる場所を見出したのは、ダビデが神殿建設を思い立ったはるかに後のことで、その晩年の平安な時期に、「サタンが……ダビデをそそのかし」(Ⅰ歴代誌21:1)、彼がイスラエルの人口調査をした直後です。それは神の民を自分の所有物として、戦力を確かめるという傲慢の罪の現れでした。

主はそのさばきとしてイスラエルに三日間の疫病を下され、七万人が倒れました。彼は自分の罪を悔い改め、主に向かって、「罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう」(同21:17)と、自分こそがさばきを受けるべきだと訴えました。

このとき御使いは、「エブス人オルナンの打ち場に、主(ヤハウェ)の祭壇を築かなければならない」と告げられ、ダビデが祭壇を築き、全焼のささげ物を献げ、主を呼ぶと「天から火を下し、彼に答えられた」という不思議が起こりました(21:18,26)。そこでダビデは、「これこそ神である主の宮だ」と言って、神殿建設のための壮大な準備を始めます(同22:1-5)。

ただ、彼は「死ぬ前に多くの用意をしておいた」ものの、主が彼に以前、「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。わたしの前に多くの血を流してきたからである」と言われたことに従って、神殿建設の栄誉はソロモンに譲りました(22:5,8)。

ダビデは主の戦いを戦っていたのですから、多くの血を流したこと自体が罪であったわけではありません。しかし、彼が戦いの勝利の勢いに乗るように神殿を建てるなら、それがダビデの功績かのように見られます。それで主は、平和(シャローム)に由来するソロモンに「安息を与え」た上で、主ご自身のわざとして神殿が建てられるということを明らかにしたと言えましょう。

ダビデは神殿建設の熱い思いをもって「(ヤハウェ)に誓いました」。しかし、彼は神殿の完成を夢に見ながら、その働きを子の世代に委ねました。しかも、その神殿の場所は、ダビデの晩年の罪の結果として与えられたものです。ダビデが自分の罪を悔いたことの現われが、エルサレム神殿なのです。

大切なのは、自分の努力を積み重ねるということ以上に、主との生きた交わりを保ち続けることです。神殿がダビデの熱い思いから始まりながらも、その神殿は彼の人間的な限界とその罪の上に立っているという不思議が明らかにされます。

大切なのは、何度も失敗しながらも、一つの方向に従順であり続けることです。詩篇に現れるように、ダビデが後世に残した最大の遺産は主への礼拝でした。神殿は後に跡形もなく崩されますが、ダビデが書いた詩篇と主への賛美の聖歌隊の伝統は三千年の時を経て、なお残されています。

2.「あなたの安息の場所にお入りください」

6節に、「今や私たちは エフラテでそれを聞き ヤアルの野でそれを見出した」と記されますが、「エフラテ」とはダビデの生まれ故郷のベツレヘムのある地域を指すと思われ、「ヤアル」とは、契約の箱が一時、ペリシテ人の奪われたのちに置かれていたキルヤテ・エアリムを指すと思われます(Ⅰサムエル7:1)。その地は、エルサレムから西に約12㎞の距離にあり、Ⅱサムエル6章にはダビデが契約の箱をそこからエルサレムに運び入れる際の苦難が描かれています。

そこでダビデは最初、誤って契約の箱を荷車に載せて運びますが、牛がよろめいたとき、祭司ウザが箱に手を伸ばしてしまい、神のさばきを受けて死んだというのです(6,7節)。そのあとダビデは、主の箱を、本来の規定通りに祭司たちに担がせ、彼らが六歩進むたびに肥えた牛をいけにえとして献げました(13節)。そればかりか、「ダビデは、主(ヤハウェ)の前で力の限り跳ね回った……ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主(ヤハウェ)の箱を運び上げた」(14,15節)と描かれています。

そしてこの7節で「さあ、主の住まいに行き 主の足台のもとにひれ伏そう」と記されるのは、神の箱をエルサレムに運び入れたダビデの感動を思い起こしてのことだと思われます。

その上でⅡサムエル7章には、「王が自分の家に住んでいたときのことである。主(ヤハウェ)は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた」(1節)と記され、そのような中で、ダビデは預言者ナタンに向かって、「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている」と言って、神の家としての神殿を建てる計画を打ち明けます。

それに対して主はナタンを通して、「あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか……わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした……こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである」と言われました(5,8,11節)。それは、ダビデが神の家を建てるという以前に、主ご自身がダビデを王に立て、彼に「安息を与えた」という意味です。

これはダビデが神のために何かができると考えていることを、滑稽な発想と退けているようことばのように見えます。しかし、主はダビデの動機自体を喜んでおられます。

8節で、「主よ 立ち上がってください」と記されることばは、イスラエルの民がモーセに率いられて荒野を旅していたときに、「契約の箱が出発するとき」に語られたものです。そこでは同時に、「あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように」と記されていました(民数記10:35)。

不思議なのは、それに続く詩篇8節の「あなたの安息の場所にお入りください。あなたと あなたの御力の箱も」という表現です。これはエルサレム神殿が完成した際、神の箱が神殿の至聖所に安置されるときのことを思い起こしてのことばです。

ここで、主(ヤハウェ)を「あなた」と呼びかけながら、神ご自身が神殿に入ることと、主の契約の箱が神殿に入ることが同じこととして描かれています。そればかりか、契約の箱が「あなたの御力の箱」と呼ばれ、神の栄光に満ちた「御力」が契約の箱を通して現わされることが示されています。

これは直接的な意味としては、神がエルサレム神殿の中で「休む」ことを指した、神を擬人化した表現です。しかし、先に、主がダビデに「安息を与えた」と繰り返されていることとの比較で考えると、神がエルサレム神殿を安息の場所とすることは、ダビデ自身の安息になるということが分かります。

それはイスラエルの民が荒野を旅した間、主の契約の箱が彼らの真ん中に住んでおられたことで、あらゆる敵から守られ通したことと同じです。これは、出エジプト記20章11節で、安息日を守るべきことの理由が、「それは主(ヤハウェ)が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである」と記されていることにも関係します。そこで「休まれた」と訳されることばは、主が神殿を「安息の場所」と呼ぶのと同じ語根のことばです。

つまり、主が「休まれた」というのは、アメリカの大統領がホワイトハウスに住むことと同じように、主がこの世界を治めるコントロールルームに入ったことを意味するとも言えましょう。

さらに9節で、「あなたの祭司たちが義をまとい」と記されるのは、目に見えない神の「(真実)」を目に見える形で現わすのが祭司の責任だからです。「契約の箱」は、主の臨在のしるしでしたが、そこに入っていたのは基本的に、主の御教えの核心である「十のことば」(十戒)を記した石の板だけでした。

ですから、主の御教えを真実に受け止め、それを民に向かって真実に告げようとしない者にとっては、主の契約の箱は単なる偶像のようなものになってしまいます。祭司エリの息子たちは、主を恐れる代わりに、それを勝利に導く魔法の箱のように扱い、契約の箱をペリシテ人に一時的に奪われてしまいます。

しかし本来は、祭司たちが神の義を示すことで、「あなたにある敬虔な者たちが喜び歌う」ことが実現するはずでした。

10節の「ダビデのために」ということばは1節とは異なり、「ダビデのゆえに」とか「ダビデに免じて」とでも訳せることばで、主がダビデと結んだ契約のゆえに、主に「油注がれた」ダビデの子孫である王たちを「退けないように」と願ったもので、11節以降への導入となります。これがキリスト預言につながります。

主の契約の箱をエルサレムに運び入れたのも、主の安息の場所である神殿を建てたのも、人間的にはダビデの功績です。しかし、その背後に、主ご自身がダビデに「安息を与えた」という主のみわざがあります。

そして、エルサレム神殿が主の「安息の場所」となることでエルサレムの平和が続くことになりました。主のみわざと人間の働きはこのように絡み合いながら、私たちの地上の人生を豊かにするのです。

3.「あなたの身から出る子を あなたの位に就かせる」という主の誓い

11節は、「(ヤハウェ)は誓われた、ダビデに」ということばから始まり、「それは引き返されない真実」という追加の説明が記されています。つまり、ダビデに対する約束は決して裏切られることはないという断固とした保証が記されているのです。

その内容は、「あなたの身から出る子を あなたの位に就かせる」というものです。この約束は、無条件のものであり、イスラエルの王家が目に見える形では滅亡するという中でも、決して破られることはありませんでした。

そのことを主は預言者エレミヤを通して、「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる」(33:20,21)と言われました。

これは毎日の昼と夜のリズムは、主がノアと結んだ契約のゆえであり、それが破られるようなことがあり得ないのと同じように、「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない」(33:17)ということを明らかにしたものです。主の真実こそが、私たちの信仰(真実)の原点です。

ただ、同時に12節では、「もし あなたの子らが わたしの契約とわたしが与えるさとしを守るなら 彼らの子らも とこしえにあなたの位に就く」という条件付きの祝福の約束が記されます。これは、ダビデの子孫の王たちが、「もし、神との契約を守らないなら」、ダビデ王国が滅亡することになると警告されたものとも言えます。

ただし、ここではそれ以上に、主の契約を守り、主が教えてくださるさとしを守ることの祝福が約束されています。主は決して、守ることが不可能な命令を与えてはいません。ダビデが主に喜ばれたのは、いつでもどこでも主をたたえ主にすがり続けたことにあるからです。

まさにダビデ自身が、「(ヤハウェ)を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)と語っているとおりです。私たちは、主を自分の喜びとするのか、自分の願望の実現を喜びとするのかが問われています。

13節は、主がダビデの子孫を祝福することの理由が、「なぜなら、主(ヤハウェ)がシオンを選び それをご自分の住まいとして望まれたから」と説明されていると解釈することができます。これは、ダビデの功績以前に、主ご自身がエルサレムのシオンの丘をご自分の「住まい」として望まれた結果として、ダビデ王家が祝福されるという意味です。

そして主は、神殿が建つシオンの丘を「これはとこしえに わたしの安息の場所」と呼ばれ、「ここにわたしは住む」と言われます。これは、エルサレム神殿を完成したソロモンが、「(ヤハウェ)よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所にお入りください」と言ったことへ応答とも見えますが、それ以前に、主ご自身がこの場所をご自分の住まいとして選び望まれたことの結果に他なりません。そのことが改めてここでは、「ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから」と記されます。

そして、主がシオンを「安息の場所」としてくださることの結果が、「わたしは豊かにシオンの食物を祝福し その貧しい者をパンで満ち足らせる」と、町の繁栄と貧しい者の生活を具体的に助けることとして表現されます。

そればかりか、9節の祈りが答えられることとして、「その祭司たちに救いをまとわせる。その敬虔な者たちは高らかに喜び歌う」という、主を礼拝することにおける祝福の実現が語られます。ここでは、私たちの信仰の熱心さが、主の臨在を招くというのではなく、主がシオンを住まいとされる結果として、主ご自身が祭司たちに救いを身に着けさせて」くださるというのです。それは目に見える祭司が、主の救いを目に見える形で人々に明らかにしてゆくことを描いたものです。

そして、その結果として、町の中の住民に主への賛美が生まれます。つまり、主への賛美は、主の臨在自身が生み出すことだというのです。

17節では、「そこにわたしはダビデのために 一つの角を生えさせる」と記されますが、これも10節の祈りへの答えです。「角を生えさせる」とは、ダビデ王家が力をもって地を治めることを意味します。

さらに、「わたしに油注がれた者のために ともしびを整えるとは、神が王家を繁栄させてくださるという意味です。それがさらに「わたしは彼の敵に恥をまとわせる」(18節)と記されるのは、王家に戦いを挑む者たちが、主の報復を受けて恥を見ることを指します。

その対比で、「しかし 彼の上には 王冠が輝く」(18節)と記されます。それは、ダビデ王家の繁栄を意味しますが、それは、ダビデの子として生まれたイエス・キリストにおいて成就されました。

救い主の現われは、主がダビデに誓われたことの成就です。今も、イエスはダビデの子として、天の神の右の座から、全世界に広がったダビデ王国を治めておられるのです。

ダビデがエルサレム神殿を建てようと思ったこと自体を、創造主ご自身が喜んでくださり、「主ご自身がダビデ王家を永遠に守る」と約束してくださいました。そこからイエス・キリストがダビデの子として登場するという流れが決まります。

救い主の現れは、ダビデが熱い思いで「(ヤハウェ)の安息の場所」を建てたいと切望したことから生まれています。それは、私たちが「主の家のために何かの働きをしたい」と思い立つときに、神の救いの歴史が動き出すことを示しています。

もちろん、それは主ご自身が一方的な恵みによって私たちを選ばれたことから始まっていますが、「選び」には「使命」が伴っています。現代のエルサレム神殿は、聖徒の共同体としての教会です。

Ⅰコリント3章10-17節にその意味が書いてあります。そこで私たちの働きが、イエス・キリストという「土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります……だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます」と記されます(12-14節)。そして、その「建物」とは聖徒の交わりとしての教会です。

16,17節の「主の宮」とは、一人ひとりの信仰者というよりも教会の交わりを指しており、「もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます」という恐ろしい警告が記されています。聖徒の共同体を壊すことは、主への最大の罪となる一方で、主の宮を建てるという奉仕は、主に喜ばれる最高の働きです。

そして主は今、私たち礼拝者の交わりをご自身の「安息の場所」としておられます。そして、それは私たち自身の安息につながることです。

一つの方向に向かっての長い従順」こそが、あなたの地上の人生が祝福される鍵です。それは天のエルサレムを目指しての巡礼の旅ですが、主との交わりを第一とすることで、主ご自身が教会の交わりのただ中に住まわれ、それによってあなたとあなたの家族が守られ、祝福で満たされることになるのです。