マタイ1章1節〜2章23節「愛の完成に向かう預言の成就」

2018年12月23日 

今から33年前に英国のワムという二人がリリースした「ラスト・クリスマス」という曲が、今もこのシーズンになると町中で聞かれます。僕は今頃になって、その歌詞を味わっています。

「Last Christmas I gave you my heart, but the very next day you gave it away. This year, to save me from tears, I’ll give it to someone special(去年のクリスマス、君に僕の真心を捧げたら、何と君は、それを翌日に捨て去った。今年は涙を流さなくて済むように、それを誰か特別な人にあげよう)」 

軽快なリズムとともに、愛することで深く傷つけられ、別の人に向かおうとしながら、その人を諦め切れない葛藤が美しく歌われて行きます。まさに、「愛することは、傷つくこと」なのでしょう。

世のクリスマスでは恋愛が話題になりますが、実は、本当のクリスマスにも、この世界の創造主が神の民に何度も裏切られながら、何度も愛の手を差し伸べ、ついにはご自身のひとり子をひ弱な人間の姿で世に送って、世の人々を神の愛に立ち返らせようとする愛の葛藤の物語があります。

聖書の様々な預言がイエスにおいて奇想天外な形で成就していますが、そこには平和に満ちた(シャローム)愛が完成する世界というゴールがあります。

1.新しい創世記としてのキリストの系図

この福音書の最初は、原文で「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記され(新改訳「系図」)、「起源の記録」という意味です。つまり、旧約も新約も Book of Genesis から始まっているのです。

続いて原文の語順では、「系図、イエス・キリストの、ダビデの子の、アブラハムの子の」と記されます。キリストとは、本来は、「油注がれた者」(メシヤ)で、ダビデの家系を受け継ぐという意味があります。

アブラハムの子」と記されるのは、神との契約は彼から始まるからです。そして私たちは信仰によって、アブラハムの子孫とされています(ローマ4:16等)。

2節以降の系図には、大きな時代上のギャップがあります。アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは当時、既に一般的でした。それはダビデという名前を数字化したものとも言われます。

不思議なのは、3~6節に、4人の問題のある女性が登場することです。タマルは嫁いだ家の夫が次々と死んで子供が与えられないので遊女の姿をして義父のユダを欺き、双子を産みます。

5節のラハブはヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを命がけで逃したエリコの遊女です。

そして続くルツは、のろわれた民の代名詞「モアブ」の女でしたが(申命記23:2)、ボアズに嫁ぎ、ダビデの曾祖母になります。

6節のウリヤの妻とはバテシェバのことですが、ダビデは彼女を奪い、その関係からソロモンが生まれ、彼がエルサレム神殿を建てます。

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上ではのろいでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果、「祝福の基と変えられたのです。それは、「あなたは祝福の基となる」(創世記12:2共同訳)という神がアブラハムに与えた約束、預言の成就でした。

キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。

ソロモンから11節のエコンヤ(エホヤキン)までは、20人の王がいましたが、14名だけが記され、彼らも問題に満ちています。

8節のヨシャファテは敬虔な王でしたが、北王国の悪王アハブ家と同盟を結び、息子ヨラムの妻アハブの娘アタルヤを迎えます。それによって偶像礼拝が南王国に入り込み、その後に名が省かれた三人の王はみな殺害されています。

9節のアハズはアッシリアに助けを求めエルサレム神殿に異教の祭壇を建てます。10節のヒゼキヤは神により頼んでアッシリアを退けましたがその子のマナセは偶像を神殿に置き、預言者イザヤを惨殺し、彼の罪がエルサレム王国滅亡への決定打となります。

それが11節のバビロン捕囚につながり、王家が亡くなったように見えましたが、12節の「バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み」という形で王家が続きます。

13~15節の系図は分からないことだらけですが、16節の「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ」につながり、ヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。

そして最後に、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリアからお生まれになった」と記されます。そこには主がダビデに、「あなたの家とあなたの王国は……とこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」と約束してくださったことの成就を見ることができます(Ⅱサムエル7:16)。

神のご計画は、愚かで不敬虔な王の存在にも関わらず、進んだのです。

なおここでは血筋ではなく契約における系図が記されています。それはヨセフが契約上のイエスの父であることに明らかです。

17節ではこの系図が十四代ずつの三つの期間に分けられ、七代が六回繰り返されていると記されます。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。

18節での「イエス・キリストの誕生は……」も1節と同じように、「キリストの起源“Christ’s Genesis”」と記されています。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。そのために、ここではマリアの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。ヨセフが「ダビデの子」だからです。

そしてこれこそ神がご自身の約束を守り通してくださったということの証しです。「のろい」が「祝福」に変えられ、アブラハム、ダビデとの契約が成就しています。私たちの信仰とは、神の真実に対する真実な応答であり、そこには「希望」と「」が伴います。

2.「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」

18節ではごく簡潔に、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とのみ記されます。

厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されています。ただ、それはマリアには理解できてもヨセフには受け入れがたいことです。

ヨセフが深く悩んでいるときに、「主の使いが夢に現れ」ます(1:20)。御使いの最初の呼びかけは、「ダビデの子ヨセフよ」です。当時の習慣では父の名を用いて「ヤコブの子ヨセフ」と呼ぶはずでした。一介の大工に過ぎないヨセフを、「ダビデの子」と呼ぶのは途方もない驚きです。

しかも、御使いは、「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(1:20,21)と言われます。

イエス」のへブル語名は「ヨシュア」で、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者の名です。つまり、その名には神から与えられた偉大な使命が込められていたのです。

そのことが、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」と言われます(1:21)。

罪からの救い」には、死後のいのちの保証というよりも、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するという意味がありました。それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らを飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。

しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及ぶ「救い」で、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることが含まれます。

私たち異邦人にとっての「罪からの救い」とは、アダムの罪によって「土地」が「のろわれ」、労働が苦しみになったことからの解放で、すべての働きを主からの「使命」と受け止め、「労苦が無駄にならない」という希望に満ちた喜びが生まれることです。それは、「新しい天と新しい地」の「いのち」が今から始まっていることです。

さらに、「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」(1:22節)と記され、イザヤ7章14節の「見よ。処女が身ごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」が引用されます。

これは、神に背く王アハズに与えられた「しるし」で、そこでは続けて、当面の大きな悲惨が予告されていました。つまり、「インマヌエル(神が私たちとともにおられる)」の意味は、困窮と不安と敗北の中で初めて理解できるのです。実際、イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは「神は今、ともにおられない……」という意味に他なりません。

しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえらせました。つまり、神がともにおられるという確信は、「神がともにおられない……」と思われるような苦しみとあざけりに耐えることを通してこそ、理解されるという霊的事実なのです。

幸い、インマヌエル預言はイエスの父となるヨセフにとっては信仰を生み出すことばになりました。そのことが、「ヨセフは……主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されます。

ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。バビロン捕囚前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりましたが、捕囚を経たダビデの子ヨセフは、神の計画を実現する器になりました。それは彼が日々の生活の中で自分の弱さに向き合い、神の救いのご計画に心を開いたからです。

かつてイスラエルの民はヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領しましたが、そこにはいつも全能の主がともにおられました。私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、富や力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。

多くの場合、「神が私たちとともにおられる」という現実は、この世的な成功の中にではなく、苦しみの中での互いの愛の中に現されます。罪からの救い」とは、恐怖や憎しみの連鎖が、愛の連鎖に変えられること自体を指します

3.「ユダヤ人の王」を拝みに来た東方の博士たち……新しい時代の幕開け……

イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」(2:1)と記されますが、ヘロデはユダヤ人と敵対関係にあったイドマヤ人(エサウの子孫)で、ローマ帝国を後ろ盾に、ダビデ王の時代に匹敵する広大な領土を支配する王として君臨していました。彼はユダヤ人の歓心を得るためエルサレム神殿の大拡張工事を行い、自分こそが預言された救い主であるかのようにふるまっていました。

そのような中で、「ダビデの子」の誕生がはるか「東方」において知られたと描かれます。マタイ1章の系図はユダヤ人以外には理解できないものでしたが、2章ではそれが世界を変える出来事であると報じられます。それが、「東方の博士たち」の訪問です。

博士たち」は新しい時代の到来を、不思議な「」の出現によって知りました。彼らには聖書の知識がある程度あったことでしょうが、来訪の主導権は、神ご自身の導きにありました。それは、キリストの救いは異邦人に及ぶということを示します。「博士たち」は、エルサレムに行けばすべてが分かると信じて「やって来」ましたが、そこに栄光の王の誕生のしるしを見ることはできませんでした。

それで、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおいでになりますか」(2:2)と尋ねまわり、それがヘロデの耳にも入ってきました。「これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった」(2:3)と描かれるのは、この問いかけが、ヘロデはイスラエルを復興する真の王ではないことを、内外に明らかにするからです。

それで祭司長たちは、ヘロデの質問に聖書から答えはしましたが、その方を拝みに行こうとは思いませんでした。自分たちの身を守るためです。

預言者ミカは、ダビデの生誕地「ベツレヘム」に「イスラエルを治める者が出る」(5:2)と記し、そして、その方は、「アッシリアが私たちの国に……踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す」(5:6)と預言されていました。

すべての預言書は、この地に神の救いが実現することを語っています。救い主は、神の民の敵を滅ぼし、世界に平和を実現すると描かれていました(ミカ4:3)。それは神の完全な平和(シャローム)の実現でした。

博士たちが、その町に近づいたとき、東方で見た「」が再び現れ、彼らを幼子イエスのところに導きました。それはまさに、神の一方的な導きでした。イザヤ60章では、諸国の民が、「黄金、乳香をたずさえ、神の「祭壇にささげる(6,7節)と預言されていました。

しかし、その「祭壇エルサレム神殿ではありませんでした。彼らは、「家に入って、母マリアとともにおられる幼子を見、ひれ伏して礼拝し……宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(2:11)と記されますが、これらはすべて最高の王に対する贈り物でした。

それにしてもイエスの最初の住まいは家畜の餌を入れる「飼い葉おけ」で、このとき博士たちは「家に入って」と記されています。これは、イエスの誕生から二年近く経っていたときのことだと思われます。その後、博士たちは主からの警告を受けて、ヘロデに報告することなく、別の道から自分の国に帰って行きます。

ヘロデは、自分の三人の息子さえ、競争者と疑って殺したほどの残虐な支配者でした。それで、主の使いが再び夢の中でヨセフに現れ、「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています」(2:13)と言います。

このとき博士たちがくれた宝物がこの長い旅の必要を満たすことができたことでしょう。主はあらかじめ必要を満たした上で、困難な命令を下したのです。

そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた」と描かれますが、興味深いのは、「これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われたことが成就するためであった」と記されることです(2:15)。

これはホセア11章1節からの引用ですが、それは未来預言ではなく、そこで主ご自身が「彼らは、呼べば呼ぶほど ますます離れて行き……バアルにいけにえを献げ……このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた……しかし、わたしが彼らを癒したことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた……(エフライムの悲惨を見て)わたしの心はわたしのうちで沸き返り……あわれみで胸が熱くなっている」(11:2-4、8)と言われる神の愛の証しです。

それは出エジプト以来の神の忍耐を振り返ることでもあります。つまり、幼子イエスのエジプト逃亡は、イスラエルの歴史をやり直す意味があります。それは、イエスこそがイスラエルを代表する王であられる方だからです。

4.悲劇のなかに希望を与える預言

ヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させ」ます(2:16)。当時の村のサイズからしたら、該当する幼児の数は10人から30人ぐらいでしょうから記録にも残りません。

ただこのことが、「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」(2:17)と解説されますが、これも神のご計画だというのでしょうか。しかし、その原点のエレミヤ31章15節前後の全体の文脈には、暗闇を通しての希望が次のように記されます。

ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ」「ラマ」はエルサレムの北8㎞にあるベニヤミン族の中心都市で、そこにバビロンに連行される人々が集められました(エレミヤ40:1)。

ラケルはベニヤミンとともにアッシリアによって滅ぼされた北王国の中心部族エフライムとマナセの父ヨセフの母です。そこで彼女は子孫の滅亡を嘆いています。つまり、イエスの誕生には、神がイスラエルの民の悲しみのただ中に降りてこられたという意味が込められているのです。

ただエレミヤ書では続けて、「あなたの泣く声……目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ……彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある……あなたの子らは自分の土地に帰って来る」(31:16、17)という希望が告げられます。

「神が全能ならば、なぜ、この世にこれほどの不条理や悲劇があるのか?」という問いに明確な答えはありません。しかし、「私たちが痛んでいるとき、神もともに痛んでおられる」ということと、「私たちの悲しみには必ず終わりがあり、神は私たちの将来を開いてくださる」ということは明らかです。

この悲劇の直後に、2章19、20節では主の使いが再び夢で「エジプトにいるヨセフに現れ」、イスラエルに帰還しても安全だと告げられます。ただ、さらに残虐な王「アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので……ガリラヤ地方に立ち退いた。そして、ナザレという町に行って住んだ」と記されます(2:22,23)。

そしてその理由が、「この方はナザレ人と呼ばれる」という預言の成就であるというのです。ただそのような預言は見当たらず、救い主の姿が「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ」(イザヤ53:3)と預言されていたことの言い換えだと思われます。

イエスに現わされた主の栄光は、当時の権力者ヘロデ王が目指した栄光と驚くほど対照的でした。

マタイ1、2章では預言の成就がテーマです。第一は、系図における四人の女性を通してアブラハムが「祝福の基となる」こと、第二は、ダビデ王家が滅亡したようでも永遠に続いていること、第三は、処女からインマヌエルと呼ばれる方が誕生すること、第四は、救い主がベツレヘムで生まれること、第五は、聖家族のエジプト避難が、救い主がエジプトから呼び出されるという意味であること、第六は、ベツレヘムの幼児虐殺に預言者エレミヤの嘆きと希望を見ること、第七は、救い主がナザレ人と呼ばれることでした。

そのどれもが、「預言が成就した!」と祝えるようなことではありません。それは、すべて未来予測のようなことではなく、神の救いの計画の全体像を知らせることが中心です。

それらは当時の人々にとっては、「どうしてこんな不条理を神は許しておられるのか」と思えるようなことでしたが、その一つ一つに、人知をはるかに超えた神の救いのご計画を見ることができます。

そして、イザヤ11章6-10節では、救い主が実現してくださる世界が、「狼が子羊とともに宿り……獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ」という平和の完成として描かれます。

同じく65章17-25節では「わたしは新しい天と新しい地を創造する……わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ、喜べ……わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ……彼らは無駄に労することもなく……彼らが呼ばないうちに、わたしは答える」という神との交わりの完成の姿が描かれます。そしてそれこそ、愛が完成する世界でもあります。

ヘロデは、政治的には、大王と呼ばれるのにふさわしい業績を残しましたが、それらをあらゆる権謀術数を尽くしてやり遂げたため、信頼できる人がだれもいませんでした。ほとんどの国民から毛嫌いされ、ひとりぼっちで、自分が作ったもので自分を慰めるナルシズムの世界に生きていました。

一方、イエスの名は「インマヌエル」と呼ばれたように、父なる神がともにいて、幼子イエスをマリアとヨセフの腕に抱かせて守りました。同じように私たちもこのキリストにある交わり(教会)に包まれて生かされています。

この目に見える交わりは、やがて実現することが確定している「新しい天と新しい地」のつぼみです。ヘロデと反対に、私たちは交わりに生きるのです。

一つ一つの預言の成就が、「新しい天と新しい地」における「平和の完成(シャローム)」の保証となっています。私たちには五年後、十年後のことは分かりませんが、イエスの救いを「永遠」の神の「救いのご計画」の中から考えることで、目の前で果たすべき責任が見えて来きます。

またこの世界の目的地が「愛の交わりの完成」にあることが分かれば、「使命」は自ずと明らかになります。パウロは、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている」(Ⅰコリント15:58)と言いました。それは、キリストにある「いのち」を生きている者には、「すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と確信することができるからです。