Ⅱ列王記1章〜3章「主(ヤハウェ)は生きておられる」

2018年8月26日

マザー・テレサは、36歳のとき過労で休暇を命じられ、その途上の1946910日の列車の中で、イエスが、「最も貧しい人々の中に、わたしを運びなさい。来て、わたしの光となりなさい」と語りかける声を聴きます。

彼女はその後も、イエスが「あなたが無能で、弱く、罪深いからこそ、あなたを私の栄光のために用いたいのだ」と語りかけるのを聞き、「神の愛の宣教会」の設立を教皇に願い、1950107日に修道会が始まります。

ところが、働きが軌道に乗り出すその頃から、イエスの語りかけが聞けなくなりました。 

後に公開されたマザーの手紙によれば、彼女は神の沈黙に深く悩み、自分の思いを次のように霊的指導者に書いています。

「私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか・・私が求めても、あなたは答えてくださらない・・私の信仰は何処に行ったのでしょう・・ここにあるのは暗闇と空虚さだけ。神は私を愛しておられる・・と教えられた。それなのに、この暗闇と冷たさと空虚さの現実があまりにも大きくて、何も私のたましいを震わせることができない。私は、間違って、聖なるみこころに盲目に従おうとしたのだろうか?」

「私が主を求めれば求めるほど、主は私を求めてくださらない。」

「私は何のために労苦しているのか・・神がおられないとしたら・・私は祈祷書のことばを深く味わおうとした・・・しかし、私はもはや祈っていない・・」 

この手紙に無神論者たちは喜んだそうです。しかし、それはダビデの祈りであり、預言者エリヤが燃え尽きの中で体験したことでした。そんな彼を神は最後に火の戦車とともに天に引き上げてくださいました。

1.占いに頼って自滅した王アハズヤ

アハブは、22年間イスラエルを治め、政治的にはアラムへの勝利や近隣諸国との友好関係を保って安定と繁栄をもたらしました。それにも関わらず、彼は聖書によると史上最悪の王と呼ばれます。

イスラエルの真の「王」は、(ヤハウェ)ご自身であられ(詩篇96:10)、王の使命は何よりも神に従うことだからです。 

アハブは、神のさばきを受けて戦いの際の流れ矢を受けて死にましたが、彼が妻のイゼベルに従ってバアルを礼拝したことの悪影響は子供に如実に現れました。

彼の子のアハズヤは二年間しか王位に留まることができませんでしたが(22:51)、それは彼自身が親に習って偶像の神により頼んだからです。

「アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた」(1:1)とは王国の衰退を示します。そのような中で、「アハズヤは・・・屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った」のですが、驚いたことに、ペリシテの地のエクロンの神に、「病気が治るかどうか伺いを立て」(1:2)させようとします。

本来なら、国が危険にさらされ、自分が病気になったのですから、謙遜にイスラエルの神ヤハウェに立ち返るべきですが、彼は占いを求めました。それは、世の多くの人々も陥り易い過ちです。

聖書の神ヤハウェは、私たちの回心(心の方向転換)を求めておられ、ときに敢えて私たちの期待に反することを行われます。しかし、そこには神の熱い招きがあります。 

マザー・テレサしばしば神の沈黙に耐えかねて、自分の疑いや心の闇の問題を、信頼する司祭に手紙で打ち明けていました。ところが、世の占いは、すぐに何らかの答えを出してくれるものです。しかし、それは人間を愚か者にします。

マザーの偉大さは、神が沈黙しておられるにも関わらず、自分が最初に受けたと信じる神のみこころにとどまり、疑いを感じたにも関わらず目の前の責任を果たし続けたことにあります。

考えて見るなら当然のことですが、不安と孤独の渇きに苦しむことがない人が、どうして人の痛みに共感できるでしょう。また彼女が神のお告げを頻繁に聞くなら、人は彼女の指示に従うだけにならざるを得ません。神の沈黙に耐えながら人格が成長し、交わりが築かれる様子は、詩篇の祈りの中に明らかです。 

(ヤハウェ)はアハズヤの過ちを、エリヤを通して指摘します。彼はエクロンに向かう使者たちに会いに行き、主のことばを、「あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主(ヤハウェ)はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ」と伝えます(1:3,4,616)

不思議にも、このほぼ同じことばが1章に三度も繰り返されます。 

アハズヤは、アハブが主の預言者の声に聞き従ってアラムに二度も大勝し、最後は預言者ミカヤのことばどおりにアラムに負けて死んだことを聞いていたはずです。アハズヤは、主(ヤハウェ)の預言者に国の危機と自分の病に関して尋ねることをできたはずです。

ところが、彼は自分の病気が治るという占いを求めてエクロンに使者を遣わし、その途上で、自分の死を告げる預言者エリヤからの明確なことばを聞きます。つまり、アハズヤが知りたかった未来は明らかにされたのです。

ただ、彼はそれを聞いても、父アハブがナボテのぶどう畑のことでエリヤから断罪されて主に必死に赦しを求めたようには、へりくだりませんでした。 

アハズヤはエリヤに対し、二回に渡って50人の兵隊を送りますが、二度とも天から火が下って彼らを焼き尽くすという結果になりました。この二度とも、遣わされた五十人隊の長は、同じようにエリヤを、「神の人」と呼びながら、神を恐れる前に王を恐れて、エリヤを殺そうとする王命に従っています。

ですから、エリヤは、「私が神の人であるなら・・・」(1:10,12)という表現で、王と神のどちらを恐れるべきかを示したのです。

三回目に王から遣わされた五十人隊の長は、王の命令を伝えることもなく、ただエリヤにすがって命乞いをします。彼にとってエリヤは真の意味で「神の人」と思われたからです。

すると主の使いがエリヤに現れ、王を恐れる必要がないとを告げ、彼は自分から王に会いに行き、改めて王に主のさばきを伝えます。

ここにアハズヤの反応は記されませんが、もし彼が徹底的にへりくだったなら、違った展開があったかもしれません。しかしここでは、単に、「王は・・主(ヤハウェ)のことばのとおりに死んだ」(1:17)とのみ記されます。

アハズヤも初代イスラエルの王サウルの場合同様、自分の罪を認める代わりに未来のことを霊媒や占いに頼って知ろうとして神のさばきを受けました。人は先祖たちの失敗から学習ができないものです。

私たちも神の沈黙に耐えながら、今なすべき責任を果たし続けるべきでしょう。私たちは迷いや疑いを通して成長します。すぐに答えを出してくれる占いに頼ることは、神に背き、自分の身に破滅を招く行為です。 

2.火の戦車とともに天に引き上げられたエリヤ

「主(ヤハウェ)がエリヤを竜巻に載せて天に上げようとされたときのこと」(2:1)という不思議な書き出しがあります。エリヤがエリシャを後継者に任じたのは、彼が燃え尽きて神の山ホレブ(シナイ山)にたどり着いた所で主の声を聞いたからでした。

そのとき、エリシャは十二くびきの牛を使って農作業をする裕福な育ちの人でしたが、エリヤの外套をかけられ、父と母に別れを告げて、すぐに従いました(Ⅰ列王19:16,2021) 

エリヤはまずヨルダン川西側の町ギルガルからエリシャを伴って出ますが、それから北王国の南端にある山の上の町ベテル、その後は再び戻って低地の町エリコへと行き、またヨルダン川を渡って向こうの地に行こうとしますが、そのたびごとに、エリシャに「ここにとどまっていなさい」と言います。

しかし、エリシャは、三度とも、「(ヤハウェ)は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません」と答えます(2:2,4,6)。それはエリシャが、主がエリヤを取り上げられることを知っていたからです。

最後にエリヤは自分の外套をとってヨルダン川を打ち、それを二つに分けて川の東側に渡ります(2:8)。これはエリヤがモーセを継ぐような偉大な預言者であるしるしです。

そこで、エリヤの促しによって、エリシャは「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」(2:9)と願います。それは長男が弟たちの二倍の相続を受けるのと同じように、彼がエリヤの後継者となることを意味します。

エリヤがモーセに相当するのであれば、エリシャはヨシュアに相当します。それに対してエリヤは、「私が・・取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう」(2:10)と言います。

つまり、エリシャは、エリヤが天に引き上げられる際の目撃者となることができるかどうかが、後継者としての最終的な試験だというのです。そして、それまでのエリヤの表面的な拒絶も、彼を試験するためだったと思われます。

そしてそこで、「火の戦車と火の馬が現われ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った」(2:11)と描かれます。エリヤは火の戦車ではなく、竜巻に乗って天に上ったのです。

エリヤと似ているのが神秘の人エノクです。創世記では、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(5:24)と記され、その意味は、「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました・・移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」(ヘブル11:5)と記されます。

エリヤの場合はカルメル山でバアルの預言者450人と戦った後、うつ状態に陥り、「主(ヤハウェ)よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから」と願いました(Ⅰ列19:4)。

彼はやっとの思いでシナイ山にたどり着きましたが、天に引き上げられるときには、「火の戦車」の迎えがありました。しかし、「火の戦車と火の馬」は、目に見えない形でエリヤを守り通していたのだと思われます。

私たちもこの地上では、「主よ。もう十分です・・」と言いたくなることがあったとしても、主の御使いは私たちを守っていてくださいます。私たちもこの地上では、よちよち歩きしかできませんが、エリヤを天に引き上げた主は、「号令と、御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに・・天から下って来られ」、そのとき「私たちは・・雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです」(Ⅰテサロニケ4:17)と記されています。

ただしそれは、「主イエスがご自分の聖徒とともに来られるとき(パルーシア:現われ)」(3:13)という枠の中で考えるべきことです。私たちはこの世界をキリストとともに治めるために、一度、空中に引き上げられ、主を先頭にして「新しい地」に降りてくるのです。

そのとき主は私たちをご自身の栄光の姿に造り変えてくださるとともに、「新しい地」をご自身の平和(シャローム)で満たしてくださいます。そこで私たちは結果が出なかった働きの実を見て、「自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを」(Ⅰコリント15:58)を確認して喜ぶのです。

エリヤはかつて、バアルを礼拝する王アハブとイゼベルに立ち向かい、イスラエルの背教に対する神のさばきを伝える最も古い預言者となりました。そして、エリヤが、「火の戦車」とともに天に引き上げられたことは、エリヤを通して示された「神の怒り」がイスラエルに実現することのしるしともなりました。

そして、50人の兵士たちが二回に渡って火のさばきを受けたことは、これからイスラエルに訪れる厳しいさばきの予兆でした。

神は、預言者たちの預言者としてのエリヤを火の戦車で引き上げることによって、ご自身のさばきをも知らされたのです。この後のイスラエル王国はまさに坂道を転がり落ちるように破滅に向ってゆきます。

エリヤが天に引き上げられたことは、彼が再び現れることを示唆します。旧約最後のマラキ書では、主ご自身が、「見よ。わたしは、主(ヤハウェ)の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす(マラキ4:5)と語っておられます。

エリヤの名は「ヤハウェは神」ですが、エリシャには「神は救い」という意味があり、これは「ヤハウェは救い」というヨシュア(ギリシャ名でイエス)と基本は同じです。その後を見ると、エリシャの働きにはエリヤにまさるものがあります。

エリヤは救い主の到来の前に人々を悔い改めに導くために再び現れるはずでしたが、それはバプテスマのヨハネにおいて成就しました。

そして、エリヤがエリシャに油注いだと同じように、バプテスマのヨハネはイエスに洗礼を授けました。またイエスは、ご自身の火によるさばきを遅らせて、一人でも多くの罪人を悔い改めに導き、神のみもとに引き上げようとしておられます。

シャガールはチューリッヒの教会のステンドグラスにおいて、エリヤがこの火の戦車とともに引き上げられる姿を真っ赤に描き、エルサレム崩壊に至るイスラエルの悲劇の幕開けとして表現しています。

しかし、その対面にはモーセが律法を受け取ってからイザヤの「新しい天と新しい地」の預言の平和の完成に至る全体像が青く描かれています。それは神のビジョンを表わす色です。

2001911日のニューヨーク貿易センタービルの悲劇の同じ月に、私はそのステンドクラスの下に座りました。その正面を見ると、赤い窓にこの青い窓が映っているのが見えました。それを通して、地上の悲劇を、聖書全体に記された神の救いのご計画の全体像の一コマとして見るという視点が迫ってきました。それこそ、悲劇を通ったユダヤ人シャガールの視点でした。

エリヤのテーマは、「主は生きておられる」です。私たちが直面する様々な赤い悲劇も、神の救いを表わす青いビジョンの中で見直すことができるのです。エリヤは自分しか見えないとき死を願いましたが、今、生きたまま天に引き上げられ、神の視点からイスラエルの歴史を見るように招かれました。

私たちも今、聖書を通して、天に引き上げられたエリヤの視点からこの地の歴史を見ることができます。 

3.予想に反することが起こる時代の幕開け

エリシャはエリヤが天に上ってゆく様を見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けます(2:12)。後に同じことばがイスラエルの王ヨアシュから病床のエリシャに呼びかけられます(13:14)。ですから、これはエリヤが神の軍勢とともに、目の前から消えてしまうことを嘆いたことばと理解できます。

その後エリシャは自分の衣を二つに引き裂き、エリヤの身から落ちた外套を拾い上げます。そこには悲嘆とともにエリヤの後継者となるとの使命感が見られます。

そればかりか、「彼は・・ヨルダン川の岸辺に立った・・エリヤの・・外套をとって水を打ち、『エリヤの神、主(ヤハウェ)はどこにおられるのですか』と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った」と描かれます(2:1314)。これはヨシュアがヨルダン川を渡って約束の地に入ったことを思い起こさせます。

エリコの預言者たちは、「主(ヤハウェ)の霊がエリヤを運んでどこかの山か谷に投げたかもしれません」(2:16)と言って、三日間も彼を捜しますが見つけられませんでした。ただこれによって、主がエリヤを天に引き上げ、エリシャを代わりに立てたことが明らかになりました。

その後、かつてヨシュアエリコを滅ぼしたこととの対比を示すように、エリシャがのろわれた町エリコの水を良くするという奇跡が描かれます。

そこで主のことばが、「わたしはこの水を癒した。ここからは、もう、死も流産も起こらない」と告げられます(2:21)エリコを滅ぼした主が、エリコに新しい時代を開いてくださいました。これは新しいヨシュアであるイエスによって異邦人への救いが開かれることを指し示します。

一方で、ヤコブが神から、「わたしはあなたとともにいる」という保証を受け、その場所をベテル(神の家)と呼んだ(創世記28:15,19)その町で、恐ろしい悲劇が起こりました。

エリシャをからかって、「上って来い、はげ頭」と言った子供たちを、彼が「にらみつけ、主(ヤハウェ)の名によって‥のろった」ところ、42人の子供が二頭の雌熊に襲われたというのです(2:23,24)

これは理不尽とも感じられますが、このベテルでは金の子牛が拝まれており、子供の声はこの町の代表としての声でもありました。それはやがて神の都エルサレムの滅亡のとき、子供が何よりも悲惨な目にあったことの前触れとも言えましょう。このポイントは本来の祝福の町の祝福のシンボルである子供たちに対するさばきを通して、神のさばきを予告することにあったのです。

3章ではアハブの子のヨラムがイスラエルの王として就任し、12年間治めることが記されます。彼はアハブやイゼベルほどに悪い王ではありませんでしたが(3:2)、アハブと同盟を結んでいたユダの王ヨシャファテを誘ってモアブとの戦いに挑みます。

その際、ユダに従うエドムの王をも誘い込み、三王国連合でモアブを攻撃しようとします。ただ、死海の南を迂回する遠回りのルートのため、水の不足に悩まされます。

このときヨラムは二回もほぼ同じ表現で泣き言を、「主(ヤハウェ)がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」(3:10,12)と述べます。

それに対しヨシャファテは、「ここには主(ヤハウェ)のみこころを求める・・・預言者はいないのですか」と尋ねます(3:11)。ヨラムはわざわいの原因を主に求める一方で、ヨシャファテはすべての状況を転換できる生ける主を求めました

そのときエリシャが召されて、「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目を留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう」(3:14)とヨラムに告げます。

エリシャは竪琴に合わせて預言し、「この涸れた谷にはたくさんの水がたまる」(3:16)と言います。これによって水の問題が解決したばかりか、モアブの王は、水に太陽が赤く反射するのを見て、これは三王国の同士打ちの血だと誤解し、イスラエルに攻めかかり敗北します。

そのような中で、モアブの王は自分の長男を全焼のささげ物としたというのです(3:27)。モアブの神はケモシュですから、「自分の子どもを・・火の中を通らせてモレクに渡す」(レビ18:21、Ⅱ列王16:3)というモレク礼拝とは異なるはずですが、「ケモシュの前で子供を全焼のささげ物とした」という碑文が存在するように、子供をいけにえとする風習はカナンに広がっていました。

「このことのゆえに、イスラエル人に対する激しい怒りが起こった」(3:27)とあるのは、主の怒りではなく、モアブ人の怒りだと思われます。それがモアブの兵士たちの士気を上げ、イスラエルの連合軍は撤退を余儀なくされたということです。三王国連合の勝利は主の奇跡でしたが、それに対しモアブの王は最も忌まわしい劇的な偶像礼拝で対抗しました。それはここに霊的な戦いの恐ろしさが描かれます。 

神の敵は今、最後の悪あがきをしています。神の救いのみわざが明らかになるとき、同時にサタンもそれに対抗するように偶像礼拝者たちの怒りを引き起こします。神のみわざを喜ぶ直後に闇がこの世を覆うという現実が起こります。地上に様々な問題がはびこっているのはそのためです。

黙示録も世の終わりが近づくに従って敵の攻撃が激しくなる様子を描きます。しかしパウロは、「夜は深まり、昼が近づいてきました」(ローマ13:12)と言いつつ、暗闇が深くなることを、救いのときが近づいているしるしだと説明しました。

マザー・テレサは「神の沈黙」に耐えながら、神を慕い求め続けました。彼女はやがて、神ご自身が自分の中にそのような渇きを起こしておられると分りました。そして彼女は、貧しい人々たちの笑顔に、感謝のことばに、神の応答を見るようになります。

神の沈黙は、彼女を貧しい人々に向わせる神の招きでした。

あなたの心に渇きを起こしておられるのは神ご自身です。そして、どんなに世が暗く見えたとしても、それは昼が近づいているしるしと見ることができます。暗闇は神の不在のしるしではなく、神の招きです。それは地上を離れて太陽に近づけば近づくほど、反射するものがなくて暗くなるのと同じです。

暗闇の中にある神のみわざを認めて、今ここで喜ぶことができます。エリヤでさえ主の救いを遠く感じて嘆きました。しかしその生涯の終わりには、「主(ヤハウェ)の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り 彼らを助け出される」(詩篇34:7)という約束が実現していたのが明らかになりました。

それはあなたにも起きている現実です。