神のかたちとしての再創造

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2018年イースター号より

人は自然の本性としては、死ぬべき動物と変わりはしません。ところが聖書では、神は人をご自身の「かたち」と「似姿」に創造されたと記されています (創世記1:26)。それは、私たち一人ひとりの存在が、この世界に神がどのような方であるかのイメージを現わすことができるほどに「高価で尊い」という意味です。なおその際、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります」(ヘブル11:3) とあるように、神はご自身の「ことば」によって、一人ひとりをユニークなかけがえのない神の最高傑作として創造してくださいました。ですから、すべての人間は、「神のことば」である御子キリストの「かたち」と「似姿」に創造されているとも言えます。つまり、神の御子が私たちと同じ姿の人間となられたという以前に、私たち一人ひとりが、御子キリストに「似せて」、御子を現わす「かたち」に創造されているというのです。

確かに、現在の人間の生き様を見ると、神の御子であるイエスとはかけ離れた、罪深い者にしか見えませんが、イエスの生き方を見る時に、私たちは「神のかたち」として本来どのように生きるように創造されているかを知ることができます。私たち一人ひとりが「神のかたち」として創造されているとともに、「御子は見えない神のかたちであり」(コロサイ1:15) とあるように、人間イエスこそが、本来の「神のかたち」としての生き方を世界に指し示しておられるということが分かります。

遺伝子的には動物と何ら変わらない人間が、神の御子と同じ「神のかたち」であるという神秘は、世界の初めの時に、神が人を創造して、エデンの園に置かれたということに現わされています。本来、園において人は、創造主との永遠の交わりのうちに生きることで、この肉体を持ちながらも、不滅のいのちを喜ぶことができたはずでした。それは神が人に、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17) と言われたことに現わされています。つまりそれは、善悪の知識の木から食べない限り、永遠のいのちの交わりを体験できたという意味です。

しかし、人は蛇の誘惑で、善悪の知識の木から取って食べてしまい、エデンの園から追放され、死に支配される者となってしまいました。そのことを神は、「おまえたちは神々だ。みないと高き者の子らだ。にもかかわらず おまえたちは人のように死に 君主たちのひとりのように倒れるのだ」(詩篇82:6、7) と言っておられます。私たちは神々であるのに、死ぬべき者となったのです。

イエスは、ユダヤ人から自分を神とする冒涜者だと非難された際、この詩篇を引用し、「神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら」と言いつつ、人間を「神々と呼ぶ」ことは不当ではないと言われました (ヨハネ10:34、35)。実は、「神のことば」は、私たちが真の「神のかたち」としての生き方を回復できるために、人間イエスとしてこの地に下って来られたのです。

ヘブル人への手紙2章で著者は、キリストにある救いのみわざを、「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたことは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです」と記されます。ここではまず、「神にとってふさわしいこと」として、「多くの子たちを栄光に導くこと」が描かれています (10節)。つまり、死の支配によって破滅に向かっている人間を救い出すばかりか、人の「神のかたち」としての「栄光」を回復させるために、神は救いの創始者であるイエスを死の苦しみに渡したと、驚くべきことが記されているのです。

「罪の赦し」以上に、「神のかたち」の回復が救いの核心とされます。それは、サタンの計略によって、人が「神のかたち」としての栄光を失ったので、それを放置したままにすることは、「万物の存在の目的であり、また原因でもある神にとってふさわしいこと」ではなかったからです。

なお、神の御子であるイエスが「完全な者とされた」というのは不思議な表現ですが、これは死ぬべき肉体を持った方が、その力を打ち破って、朽ちない身体となられたことを意味します。そして、そのキリストの復活は、私たちすべてが復活して栄光の朽ちない身体を持つこととセットで記されています。キリストの復活は、私たちすべての人間の復活の「初穂」(Iコリント15:23) だからです。

その上で、キリストの受肉と復活によって実現した救いが簡潔に、「子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(14、15節) と記されます。神は死ぬことのない方ですが、「神のことば」が、私たちと同じ血と肉を持つ身体を取られたことで、死ぬことができるようになりました。しかし、「いのち」そのものである方が死ぬとき、反対に「死の力」が滅ぼされます。しかも、「死の力を持つ者」とは、サタンのことで、イエスはご自分の死によってサタンの力を滅ぼしてくださったというのです。

キリストのうちにある者にとって、サタンはすでに無力化されています。サタンは今も確かに、私たちを脅すことはできます。しかし、私たちはすでにキリストのうちにある復活のいのちを生き始めているのです。初代教会時代のローマ帝国の支配は、剣の脅しという軍事力によって成り立っていました。しかし、キリストのうちにある者とされた信者たちに、死の脅しは通じなくなりました。それどころか、クリスチャンが殺されれば殺されるほど、福音は爆発的に広がりました。それは人々の目に、クリスチャンたちがすでに死を乗り越えた「永遠のいのち」に生きていることが明らかにされたからです。

「神のことば」がこの地に来られたのは、この方が真の御父のかたち(イメージ)であることによって、人間が神のかたち(イメージ)として再創造されるために他なりません。それは、死と破滅の力が滅ぼされない限り、回復ができるものではありませんでした。それで主は、死すべき身体を取られることによって、ご自身の身体において死を滅ぼし、人間が再び、本来の目的に沿った、「神のかたち」として新しくし生きられる道を開いてくださったのです。

現代の日本においても多くの人々は、不安に駆りたてられるように生きています。そして、その不安を象徴するのが「死」です。確かに、肉体の死を望むほどに苦しんでいる人が多くいます。しかし、その心の奥底には、「人生はこんなものではないはず……」と思う、いのちの喜びに満ちた生活への憧れがあります。十字架は死の力に対する勝利のシンボルでした。死の力は砕かれ、私たちのうちには創造主ご自身、いのちにあふれた「聖霊」が住んでおられます。私たちは創造主である聖霊の働きによって、イエスが生きられたように「神のかたち」としてこの世界を照らすことができるのです。この世界の闇は、キリストにある、いのちが輝く舞台に過ぎません。委縮する必要はありません。