2018年3月25日
生きるって、大変なことですよね。時々、めげそうになります。ときどき、「もう、やっていけない・・」と思うことがあるかもしれません。そして、ふと、「できたら、もっと気楽に生きてゆきたいな・・・」と思うことがあります。そんな中で、こんなことばが響いてきました。
「君たちは、『できたら・・』を望んでいる。それにしても、『苦しみを無くそう・・』などというほど愚かな、『できたら・・』はあり得ない。私たちはそれに対して、『いまだかってないほどに、それを激しく、酷(ひど)く持ちたい!』と思う。君たちが理解する『無事安泰』、それは目標ではなく、終わりではないだろうか。それは、人間を嘲笑すべき、また軽蔑すべきものにする状態だ。それは人間の没落を望むことに他ならない。苦しみの訓練、しかも、偉大な苦しみの・・・君たちは分からないのか。この訓練のみが、今まで、人を高みに上げることを創り出してきたということを・・・」(善悪の彼岸225章私訳)。
これは最近見直されているドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェのことばです。
しかし、彼は苦しみすぎて気が狂ったのかもしれません。彼は牧師の息子として生まれながら、五歳で父親が死に、その後、キリスト教会と牧師を何よりも憎む者となりました。彼によると道徳化されたキリスト教は、人間の内側にある生きることへの熱い意志を押し殺し、将来的な苦痛に対する恐怖の奴隷にしてしまったというのです。しかし彼は、人間イエスには深い尊敬の念を抱いていました。
彼は、「福音の使者は・・・いかに生くべきかを示すために死んだ・・彼は手向かいしない。自分の権利を擁護しない…彼は自分に害を加える人々・・の中に立ち混じって、嘆願し、悩み、愛している・・悪人に手向かいせず、これを愛する・・・イエスのような模範的な死に方、ルサンチマンの感情をことごとく超え出たあの自由感、超越感を、彼らは理解しなかったのである」(アンチクリスト35、39、40)と書いています。
彼はある意味で、彼流の理解で、イエスに習おうとした孤高の哲学者であり、道徳化されたキリスト教の無力さを鋭く指摘しています。私はニーチェを読むたびに、三位一体論を忘れた、聖霊の働きを忘れたキリスト教の問題を気づかされます。
今も同じように、イエスに憧れ、この世の苦しみに真剣に向き合いながら、途中で息切れしてしまう人が後を絶ちません。クリスチャン生活の「奥義」を、パウロの証しと祈りから学んで見ましょう。
1.「異邦人のために、この私パウロはキリスト・イエスの囚人として・・・この福音に仕える」
3章1-7節は一つの文章で、「こういうわけで、あなたがた異邦人のために、この私パウロはキリスト・イエスの囚人として・・・この福音に仕える者となりました。それは私に与えられた神の恵みの賜物によることであり、それは神の力の働き(エネルゲイア)によることです」が中心的な意味になっていると解釈できます。
ここでまずパウロは、自分が異邦人の救いのために、ローマで囚人となっているという事実に読者の目を向けさせます。ただ、それはローマ帝国の囚人というのではなく、キリスト・イエスに捕らえられている者として福音に仕えるためであり、しかもそれは、苦難というよりも神の恵みの賜物によることであり、そこに神の力が現実に働いているというのです。
パウロはかつてエペソ教会の長老たちに向かって、「私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。ただ聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:22-24)と語っていました。
それは決して自分の苦労を自慢するためではなく、キリストの福音がいのちをかけるほどにすばらしいものであり、自分に与えられた務めは何よりの特権で、そこに「神の力が働いている(エネルゲオー)」ということを証しするためです。
ただし、それは同時に、福音がそこにある偽りの平和を壊す可能性を秘めていることを当時のユダヤ人指導者がよく理解していたことを意味します。それは、ユダヤ人と異邦人の世界が分離され、住み分けているという「隔ての壁を打ち壊す」(2:14)ものでしたが、ユダヤ人にとっては、元のパリサイ人が自分たちの民族的な誇りを否定する行動をとっているようにしか見えませんでした。
当時、ユダヤ人とギリシャ人が、いっしょに食事を楽しむなどということはあり得ませんでした。また、ギリシャ人やローマ人がそのままの生活習慣を保ちながらユダヤ人といっしょに「神の国」に入れていただけるなどという考えは、多くのユダヤ人にとって、神のみことばに反する冒涜と思われました。
ですから、敬虔なユダヤ人たちは、異邦人がイエスに信頼することで神の民とされるという福音を説いているパウロを死刑に値する異端者と見ていました。
しかし、パウロがこの福音にいのちを賭け、牢獄にまで入れられたという犠牲と労苦が実を結んだ結果として、ユダヤからは地の果てのまだ向こうの日本にまで福音が届いているのです。その際、彼をそこまで熱くさせることができた福音にこそ目が向けられるべきです。
続けてパウロは、「もし、あなたがたが神の恵みの務め(計画、エコノミー)について聞いているならばのことですが、それはあなたがたのために私に与えられたものです。実に、奥義(ミステリー)が啓示によって私に知らされたのです。それは先に短く書いた通りです。それを読むことで知ることができるはずです。私がキリストの奥義(ミステリー)をどのように理解しているかということが」(3:2-4)と書いています。
彼にとって、「キリストの奥義」という啓示された偉大な知恵と、「神の恵みの務め(計画、エコノミー)」という個人的な使命感は、切り離すことができない関係にありました。この「奥義」は、異邦人の救いのために、パウロがあずかったものであり、それは、いのちをかけて伝えるのに値する真理として伝わってきました。それは強いられた義務ではなく、「神の恵みの務め」と呼ばれます。
「務め」とは「エコノミー(経世済民、世を治め民を救う)」の語源となることばで、「計画の全体像」とも訳すことができます。まさに「啓示された奥義」自体に、彼の生き方を180度変えるほどの力が秘められていました。それは私たちにとっても同じです。
「キリストの奥義」には、自己保身に向かわせる「恐れ」から人を解放する力があります。そして、その「奥義」に関しては1章10,11節で、
「それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画(エコノミー)が実行されるものです。それは、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」と記されていました。
これは「キリストにある再統合(recapitulation)」とも訳すことができる、東方教会神学の核心です。
そのことが1章20,21節では、「この大能の力を神はキリストのうちに働かせ(エネルゲオー)て、彼を死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」と記され、キリストの支配の実現が強調されます。
そればかりか私たちも今すでに「キリストのからだ」(1:23)の一部とされたことで、2章5,6節では、神は「私たちを、キリストとともに生かし・・・キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上にすわらせてくださいました」と記されます。これは復活と昇天が天国で実現するというより、「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、既に実現していることとして見るという意味です。
私たちのうちに既にキリストご自身の分身とも言える全能の聖霊が住んでいるので、今から「王」としての誇りと責任のうちに生きられるのです。パウロが語った福音とは、ギリシャ人とユダヤ人が、ともにキリストのうちにある者とされて、ともにこの世界を治めるというものでした。
それはローマ帝国にとっても脅威となる教えでした。ローマ皇帝が「神の子」として崇められている社会で、イエスこそが「神の子」であり、全世界の王であると語ることだからです。
当時の人々はパウロの立場に関して、生粋のユダヤ人、パリサイ人であるという神の民のエリートであるとともに、彼が「ローマ市民」という貴族階級であることを特別視していましたが、彼は自分の内にキリストの「働き」(エネルゲイア)が満ちていることを知って、ローマ帝国の囚人とされていることを恥じるどころか、誇っているのです。
2.「奥義とは・・・キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり・・」
その上でパウロは、「この奥義は、前の時代には、人の子らには知らされていませんでした。しかし、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています」(3:5)と解説します。旧約聖書には「異邦人の救い」は示唆されてはいても、疑いの余地のないほど明確には書いていなかったからです。
なぜなら、旧約の預言は、アブラハムの子孫に向かっての希望を語ったものだからです。
その中心テーマは、バビロン帝国によって破壊されたエルサレムの残りの民に希望を教えることでした。しかし、新約の時代には、聖書の教えはすべて、この世で様々な苦しみにあっているすべての異邦人のための希望でもあると知られるようになりました。
その特別な啓示を受けたのが、パウロばかりではなく、「キリストの聖なる使徒たちと預言者たち」でした。そして、それは「御霊によって」のことでした。
続く6節では「奥義」の内容が、「異邦人もまた共同の相続者となり、ともに同じからだに連なり、ともに約束にあずかる者になる」と解説され、そこでは、「ともに」ということばが三回も繰り返されています。その上で、それが、「キリスト・イエスにあって、福音を通して」実現したことだと語られます。
ユダヤ人の最高議会でイエスが死刑判決を受けた最大の理由は、彼が大祭司に向かって、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」(マタイ26:64)と言いながら、ご自身こそがダニエル7章13,14節に預言された救い主であることを明かされたことにあります。
そこでは引き続き、神の民に対する試練の後に来る希望が、「いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐときがきた・・・国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる」(同7:22,27)と描かれます。
これを当時のユダヤ人たちは、イスラエル王国の復興の約束と理解しましたが、新約の時代に啓示された「奥義(ミステリー)」によれば、この約束の中に異邦人もともに加えられるというのです。
私たちは「神の国」がこの世界に完成する日を待ち望んでいます。そのときに何よりも目に見える形で実現することが、国語や民族や習慣の違いを超えて、神の民がひとつになり、この世のすべての豊かさを平和のうちに分かち合うことができるという世界です。
ジョン・レノンがイマジンという曲の中で、「もう国の区別なんかないって想像してごらん。そんなに難しいことじゃないよ。もう、国のためにと言って殺しあったり死んだりする必要なんてないんだ・・・もう所有なんてないって想像してごらん。それができるかな。そのとき、人はもう、欲張ったり、飢えたりする必要なんてないんだ。みなが兄弟になって、この世界を分かち合っているんだ」と歌っていましたが、それは聖書が語る「新しい天と新しい地」のイメージから生まれています。
ジョンは、この曲の初めで、キリスト教会の教えにチャレンジするような気持ちで「天国も地獄もないと想像してごらん」と歌い始めています。しかし、聖書が本当に意味で語っている「天国」の希望とは、彼が期待した「平和(シャローム)」が完成する世界だったのです。
キリストの「奥義」が実現する世界を「イマジン」しながら生きること、それこそクリスチャン生活の基本です。「新しい天と新しい地」は、私たちが憧れている愛の交わりの完成の世界です。
3.万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現
パウロは引き続き、「キリストの奥義」と自分の「務め」の関係を説明しながら、「この私に、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者に、この恵みが与えられたのは、キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、奥義の実現(計画の全体像、エコノミー)が何であるかをすべての人に明らかにするためです。ただ、それは万物を創造した神のうちに世々隠されていたものです」(3:8、9)と語っています。
彼が自分を「すべての聖徒たちのうちで一番小さな者」と呼んでいるのは、かつてクリスチャンたちを迫害することにいのちをかけていたという過去の過ちを心から悔いているからです。
パウロは決して、真理を求めて格闘しながら自分の知恵で福音を信じたという人ではありません。彼は聖徒を迫害する旅行の途中で、天からのキリストの声に捉えられて回心したのです。
ただし、彼のこの特別な選びは、彼が誰よりも福音のために苦しむということとセットになっていました。簡単にいうと、福音のために牢獄に入れられたり、鞭打たれ、ついには殉教の死を遂げることの代償として、彼に特別な恵みが与えられているのです。
どの世界でも、身勝手な「いいとこ取り」の要求は許されません。それにしても、私たちは様々な方法と段階で、「キリストの測りがたい富」の豊かさを理解できるように成長させていただけます。その豊かさを知れば知るほど、自分自身から自由になることができます。
私たちが真の意味で神と人を愛することができないのは、キリストにある富の豊かさが見えていないことの結果です。「もっと恐れから自由になろう!」と自分を叱咤激励する前に「心の目がはっきり見えるようになる」(1:18)ことをこそ祈るべきです。
また「奥義の実現(計画の全体像)が何であるかをすべての人に明らかにする」とありますが、この「実現」とは2節の「務め」と同じ英語のエコノミー(経世済民)の語源の言葉です。
それは「万物を創造された神のうちに隠されていたもの」とあるように、パウロは人々の目を、異邦人も含めたすべての人間の創造のときという原点に立ち返らせます。
神は私たちの父祖のアダムとエバをその罪のゆえにエデンの園から追い出しましたが、今、キリストによって「新しいエルサレム」への道が開かれたのです。
パウロはさらに、「これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して、神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、それは永遠のご計画によるもので、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられることです」(3:10、11)と語ります。
「天にある支配と権威」とは、御使いたちとサタンの支配の両方を指し、教会を通して彼らに神の救いのご計画が知らされるというのです。なぜならパウロに啓示された「奥義」とは、御使いを通してではなく、全能の神の御霊ご自身によって直接に与えられたものであり(3:5)、また、私たち弱く無知な者の集まりである「教会(エクレシア)」は、「キリストのからだ」そのものであるからです。
この「集い(エクレシア)」は、悪霊を怯えさせたキリストご自身に直接に結びついているのです。この「エクレシア」の素晴らしさは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを生んだ世界的な学問の中心のギリシャ人と、いかなる偶像礼拝をも拒絶した最古の信仰の民であるユダヤ人が、アブラハムに繋がる「ひとりの新しい人間として創造」されたことによるのです(2:15)。「多様性を保った一致」こそ最大の力でした。
そしてまたパウロは、「この方にあって、私たちは確信をもって大胆に神に近づくことができます。それはこの方の真実によるのです。ですから、落胆することのないようお願いします。私があなたがたのために苦難に会っていることを。それはあなたがたの光栄だからです」(3:12、13)と述べます。
私たちは、自分の信仰によってではなく、「キリストの真実によって」、大胆に神に近づくことができます。私たちの信仰は、「キリストの真実」の反映にすぎません。
そして、すべてが愛に満ちた神のみわざによるものであるからこそ、パウロの受けている苦しみを見て、「せっかくキリストを信じたって、悪いことばかりが起きる・・・」などと落胆する必要がないのです。
いやそれどころか、パウロは、自分の苦しみの背後に、異邦人に救いをもたらそうと願うキリストご自身の熱い思いがあることに気づくようにと諭しているのです。
キリストは異邦人に「光栄」をもたらすためにパウロを用いますが、この世にはなお悪の力が満ちています。ですから、キリストがご自身の働きのために私たちを用いようとするとき、悪霊たちは必死に私たちの信仰を揺るがそうと攻撃をしかけてきます。
私たちが様々な試練に会うとき、自分たちが悪霊にさえ恐れられている存在であるという誇りを持つべきです。悪霊は、箸にも棒にもかからないようなどうでもよい人間を攻撃はしません。自分の信仰を恥じる前に、悪霊をも脅かしている自分に誇りを持ちましょう。
パウロにとって「キリストの奥義の実現(管理、エコノミー)」とは極めて具体的なことでした。彼はこの手紙をローマの獄中で書いたと思われますが、本来、初期の予定は、ギリシャ伝道の後、ローマ市民の立場を生かして当時の世界の中心のローマで伝道し、そこの教会を励まし、彼らに送られてスペインにまで行くことでした。
しかし、彼はエルサレムの貧しい聖徒たちを助けるために、ギリシャの諸教会から献金を集めて、自らエルサレムに戻ることが神のみこころであることを「御霊によって示され」ました(使徒19:21)。それは、ユダヤ人に憎まれている彼にとっては、いのちの危険が伴うことであり、回りの人々からは、無謀なこととして反対されました。
そればかりか、彼が献金の訴えをあまりにも大胆にしたためか、コリントの教会の人々からは、「悪賢く・・だましとった」(Ⅱ12:16)などという侮辱を受けました。
彼はしかし、それでも、「異邦人は霊的なことでは、エルサレムの人々からもらいものをしたのですから、物質的なことで奉仕すべきです」(ローマ15:27)と、この行為が、異邦人とユダヤ人の一致を生み出すために何よりも大切なことと信じ、エルサレムで殺されることを覚悟で行きました。彼の行動自体が「奥義の管理」の証しでした。
この世的な効率性の観点からは、これほど愚かな行為はありません。しかし、主イエス・キリストは、異邦人とユダヤ人の一致という「奥義」を、パウロに示すとともに、彼を動かして、目に見える形での一致を作り上げてくださいました。
このように、パウロが、誰の理解も得られないような行為を、いのちがけで行うことができたのは、彼自身のうちに「神の力の働き(エネルゲイヤ)」が聖霊によって実現していたからです。
パウロに明確なビジョンを与えた神は、それを実行する力をもお与えくださいました。それは、彼自身の信仰というより、「キリストの真実」によって生まれたことです。彼は結局、皇帝の裁判を受けるため、囚われの身として、ローマに移送されることになり、意外な形で彼の望みがかないました。パウロは、キリストと御霊に捕らえられて、父なる神のご計画のためにいのちをかけることができました。
そして、その結果として、今、福音が私たちのところに届いています。使命にために苦しむ力を、神は与えてくださいます。人はだれも自分の力でクリスチャン生活を全うすることはできません。
+聖書の教えは、生命力に反する道徳ではありません。そこには私たちの心を燃やし動かす、愛と力の「奥義」が啓示されています。「キリストの奥義」は、「知恵」であるとともに、私たちの心を動かす「神の力の働き(エネルゲイヤ)」でもあります。