エペソ2章1〜16節「私たちは神の作品(ポエム)です」

2018年1月21日

 多くの人の心の奥底に「変身願望」があると言われます。子供も「・・レンジャーに変身!」という物語に興味を惹かれます。それこそ、人が「信仰」に期待するものかもしれません。

私も「もっと心が安定した人間になりたい・・」と思っていましたが、そう願えば願うほど、自己嫌悪に苛まれ、争いを起こすことがありました。しかし、ありのままを受け入れてくださる信仰の先輩方との交わりの中で、自分が願っていた成長の方向の過ちに気づかされました。

ある人が先日、「僕は、聖書の神というよりも、自分の問題を解決してくれる神を求めていた。だから、問題がこじれたとき、自分の不信仰や人の対応を責めて空回りを起こし、かえって傷口を広げてしまった。高橋先生が慕う先生方にもっと早く出会っていたら、神の愛の眼差しの中で自分を優しく受け止め、家族にも迷惑をかけずに済んだかもしれない・・」という趣旨のことを言っておられました。

あなたが願っている人格的な成長は、イエスが願っている方向なのでしょうか?

 

1. 神がキリストにあって与えてくださった「救い」の偉大さ。

旧約での神の「救い」は、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)と描かれます。それは、エジプトでの奴隷状態からの「救い」です。

それに対応する新約の「救い」がこの21-6節に記されます。それはサタンの奴隷状態からの「救いです。

 

2章最初の文章は、「あなたがたは自分のそむきと罪との中に(ゆえに)死んでいた者であり・・・(それらの中にあって)歩んでいました」と記されています。つまり、「死んでいた」ままで「歩んでいた」と記されているのです。

「そむき(罪過)」とは「立っているべきところから落ちた状態」、また「罪」とは、「的外れな生き方」を指しています。誠実に生きているようでも、見当違いの確信に立ち、見当違いの方向に向かっている人、つまり、自分の創造主を知らずに生きている人々すべてが、「死んでいる」というのです。

 

2節は、「かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです」と訳すことができます。まず、「この世の時代に合わせ(流れに従い)」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従ったものです。

サタンは天の神と地の人との間の「空中」に入り込み、神と人との関係を壊すために働き、神を信じない「不従順の子らの中に働いている霊」として、世界に悪を広めています。

この「働いている(エネルゴン)」とは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

 

3節も、「その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と訳すことができます。つまり、悪霊に従った歩みとは、皮肉にも、自分の生きたいように生きることだというのです。

最初の人間のアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けて善悪の知識の木を見たとき、「その木は・・目に慕わしく・・・好ましかった」ものに映ったと記されています(創世記3:6)。それは、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方を指し、そのように生きる人が、「御怒りの子」と呼ばれます。

つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、極悪人というより、生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。

そのように神に救いを求めようともしない人々にもたらされた一方的なみわざが、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(2:4-6)と記されます。

ここで再び、私たちが、「背きの中に死んでいた」状態にあったことが指摘されますが、「死んでいた」人は、自分の力で生き返ることができません。その「救い」は、「あわれみにおいて豊か」な、「その大きな愛」を通して、一方的に「私たちを愛する」という神の主導権によるものでなければなりません。

その上で神のみわざが、三つの観点から描かれます。その第一は、「私たちをキリストとともに生かし」です。「救い」の本質とは、「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」ということです。それがさらに、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言われます。つまり、「救い」とは、目の前の問題解決以前に、このままの自分にキリストが寄り添ってくださるという「交わり」にあるのです。

しかもこれが第二、第三のみわざとして、「キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天を指します。

これは天国への期待というより、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していると見られるのです。

   この時間の観念を理解する鍵が7節で、「それは来たるべき時代(世々)においてこの限りなく豊かな恵みを示すためでした。それはキリスト・イエスのうちにある私たちへの慈愛のうちにあります」と訳すことができます。

この「来たるべき時代」とは、2節の「この世の時代」に対応し、「救い」は後の時代になって初めて人々の目に明らかになると記されています。しかし、私たちのうちに既にキリストご自身の分身とも言える全能の聖霊が住んでいるので、今から「王」としての誇りと責任のうちに生きられるのです。

   興味深いのは1章20,21節でのキリストの栄光による支配と、2章5,6節の私たちに約束された栄光支配が並行していることです。イエスに起こったことが私たちにも起きるのです。それは私たちが「キリストとともに生かされ」「キリスト・イエスのうちにある者」とされているからです。

しかも、それは個々人としてというよりは、「キリストのからだ」(1:23)としての「教会」、つまり「信仰者の共同体」に与えられた「救い」です。キリストは既に、この世界を治める「王」となっておられますが、私たちは「キリストのからだ」として、それぞれの賜物を生かし合い、この世界に神の愛を見えるように現わして行く責任があるのです。

2.「私たちは神の作品であって・・・キリストにあって造られたのです」

そして、この不思議な「救い」がどのように実現したかについて、「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって(を通して)救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(2:8、9)と記されます。

ここでは、「行いによるのではない」ということの説明として、「だれも誇ることのないためです」と記されています。つまり、自分の「信仰」を誇るような姿勢は、「行い」の一部に過ぎず、聖書が語る信仰ではありません。反対に、自分の信仰を卑下することも、優越感とコインの裏表の関係にある劣等感の表れです。

私は「信仰によって救われる」と聞いて、最初は、「信じるだけで良いんだ・・」と気が楽になりましたが、そのうち「こんな自分の信仰では救われない・・」と不安になりました。

しかし、「信仰」とは、救いを生み出す原動力ではなく、神の恵みを受け止める受信機のようなものです。ここでは「恵みのゆえに」という原因と、「信仰を通して(through)」という媒体の区別が明確にされています。

すべてが神の恵みであることを心の底から味わうようになるということが、信仰の成長に他なりません。自意識過剰な信仰ほど危険なものはありません。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。

その上でパウロは、私たちが怠惰に陥ることがないように決定的なことばを加えます。それが、「実に、私たちは神の作品であって、良い行い(複数)をするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。それ(良い行い)をも神はあらかじめ備えてくださいました。そのように(良い行いのうちに)私たちが歩むことができるために」(2:10、後半私訳)との表現です。

原文では「良い行い」ということばは一度しか登場しません。それは私たちの目を自分の働きではなく、神のみわざに向けさせるためです。

しかもこの中心は「私たちは神の作品です」という宣言です。「作品」のギリシャ語は「ポイエマ」で、英語の「ポエム(詩)」の起源とも解釈できます。それは神の栄光を「イメージさせることば(擬音語)」とも訳せます。たとえば、「春の小川は さらさら行くよ」と歌う詩の「さらさら」が「擬音語」で小川の流れをイメージさせる詩的表現です。

同じように、私たちの存在自体が、神を何らかのかたちでイメージさせるというのです。あなたは、「がみがみ叱る神様」か、「さんさんと太陽の光が降り注ぐ」ように神の愛を現わすかが問われています。

パウロは先に、キリストを知らないときの「歩み」を、「死んでいた者としての歩み」、また「自分の肉の願い(欲)の中に生き、肉と心の望むままを行い」という「歩み」として描きましたが、ここでは、「救い」の結果を、「良い行い(複数)のうちに歩む」者となることとして描いています。その前提として、「私たちは神の作品(ポエム)であって」と記されます。

あなたは自分の個性や感性を「神のポエム」という観点から見ているでしょうか。そこでは「みんなと同じ」ではないこと自体が何よりの魅力となります。

しかも、パウロはここで、「(様々な)良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・それをもあらかじめ備えてくださった」と記しますが、「良い行い」とは、人との比較からではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるというのです。

それは「キリストのうちにある創造」の原点に立ち返ることで、「一切のものが、キリスト・イエスにあって集められる」(1:10)という目的にかなって考えられることです。それは個人的な評価ではなく、キリストにある共同体が築かれて行くという尺度から見直されるべきことと言えます。

たとえば私は、自分の神経症的な不安や生き難さの中から詩篇によって慰めを受け続けています。そこでの「良い行い」とは、自分の傷つきやすい心を正直に受け止め、それを神に祈るということであり、また、自分の個人的な葛藤を正直に表現するということに他なりません。

そして意外にも、極めて個人的なことは本当に多くの人々の心の内面に届くということです。その結果を、詩篇の本を二冊記し、またディボーション誌Mannaでも記させていただいています。先日奉仕させていただいた教会では、小グループの学びで以前の記事を使ってくださっていました。また、私の本を通して、「祈ることができなかった自分が、祈ることができるようになった」と言ってくださった人が何人かおられます。

私は自分の性格や感性が異常ではないかと悩んでいた時期が長くありました。しかし、私が神の「ポエム」であるなら、私が個人的に感じることは、神が感じさせてくださっていることであり、私が表現することばは、神が表現させたいと願っていることとも言えましょう。

この世は、働きの結果を数字で表すことが大好きです。しかし大切なのは、人と人との心が共鳴し合うことであり、ともにイエスの救いを喜ぶことができることなのです。

しかも、「私たちは」、信仰者の共同体として「神の作品(ポエム)」なのです。あなたが他の人と違っているからこそ、他の人の欠けを補い、また他の人に新たな気づきを与えることができます。

私たちが世界的な「キリストのからだ」の一部の共同体として、どのようなポエムを奏でているかが問われています。

3.「キリストは…ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し」

その上でパウロは、「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」(2:11、12)と、エペソの教会の人々がどのような状態から救い出されたかに目を向けさせます。

当時、イスラエルの民と異邦人との間には、超えられない深淵が横たわっていると思われていました。パウロは何よりも、そのことを「思い出してください」と強調しています。

イスラエル民族はアブラハムの子孫ですが、神は彼らをご自身の民として受け入れるしるしとして、男子の性器の包皮を切り取る割礼を行うことを命じられました。神が彼らを選ばれたのは、彼らを通してご自身のことを世界に知らせるためでした。しかし、彼らは自分たちの「肉において」の出生を誇り、異邦人たちを「無割礼の者」と軽蔑をこめて呼ぶようになります。

確かに、エゼキエル34章20-31節などに記される救い主は、イスラエルの真の牧者、新しいダビデとして描かれていました。事実、イエスがツロとシドンの地方に退かれ、そこでカナン人の女から、悪霊に憑かれた娘を癒してほしいと懇願されたとき、主はまず、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」とお答えになったほどです(マタイ15:24)。

幸い、この女の即妙な応答で娘は癒されましたが、イエスの最初の答えは、旧約聖書から出てくる当然のことばと思われました。それほどに、異邦人は、「望みもなく、神もない者たち」と見られていたのです。

それでも当時の異邦人は、まず「割礼」を受け、食物律法などの様々な規定を守ってユダヤ人になるという過程を経るなら、そこで初めて、望みを持つ者となることが可能でした。

ところが、ここでは突然、「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあってキリストの血によって近い者となりました」(2:13)という不思議な議論の展開が見られます。

この書のキー・ワードは「キリストにあって」です。キリストはイスラエルの理想の王ダビデをはるかに上回る、この世界を父なる神とともに創造された神の御子です。そして人となられたイエスは、異邦人の罪をもご自身の身に背負って十字架にかかってくださいました。

その一方的な愛による、「キリストの血によって(にあって)」、本来、「遠く離れていた」と思われていた異邦人も、神に「近い者とされた」というのです。

そして、「実に、キリストこそ私たちの平和です」(2:14)とは、「心の平和」というより、ユダヤ人と異邦人という「二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ちこわし、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄され」たことを意味します(2:14、15下線部私訳)。

当時の神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁があり、どれほど熱心にイスラエルの神を求める人でも、異邦人である限り、いけにえを献げる中庭に入ることは許されませんでした。その隔ての壁には、「いかなる外国人もこれより先に入るなら、死刑に処せられる」と記され、この場だけは治外法権がローマ帝国から許されていました。しかし、キリストの十字架がこの「隔ての壁」を「打ち壊し」たというのです。

初代教会の時代、ペテロがローマの百人隊長の家を訪ねたときに、「あなたは割礼のない者たちのところに行って、彼らといっしょに食事をした」と他の弟子たちから非難されました(使徒11:3)。それに対しペテロも事の次第を順序正しく話します。

彼も最初、異邦人の家に入ることを、律法に反することと思っていました。しかし、神は彼に、三回にも渡って、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と、夢の中で語ってくださいました(同11:9)。それで初めて、異邦人の家を訪ねることができ、ユダヤ人と異邦人がともに食事をすることが可能になったのでした。

確かに、レビ記には、ユダヤ人が食べることを許されないこと細かな動物のリストがありました。それは豚、らくだ、うさぎの肉、たこやえびです。これらはすべて、食用に禁じられているという以前に、神へのいけにえとして用いることが許されない生き物でした。つまり、ユダヤ人を神の民として受け入れるためのいけにえの規定が、汚れた動物を食べる異邦人に対する「敵意」となっていたのです。

しかし、イエスは「ご自分の肉において」、神の神殿を完成し、もはや神殿を事実上、不要なものにしてくださいました。そして、この神殿にかかわる「戒めの律法」が不要になったとき、異邦人とユダヤ人がともにイスラエルの神、主を礼拝できるようになりました。

そして、この和解をもたらす画期的な神秘が、「こうしてキリストは、この二つをご自身においてひとりの新しい人間として創造し、それによって平和を実現し、両者を一つのからだとして神と和解させてくださいました。それは十字架を通してであり、ご自身にあって敵意を滅ぼされたのです」(2:15、16私訳)と描かれています。

14節では「敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し」とありましたが、ここではさらに、「敵意を滅ぼされた」と記されます。ですから15節での「律法の廃棄」とは、律法全体ではなく、神の民とされたユダヤ人を偶像礼拝の民の影響から守るための食物律法などの部分的「廃棄」を意味します。

十字架は、何よりも敵意」を廃棄し、葬り去るためのものと記されます。ここで何よりも強調されるのは、キリストがユダヤ人と異邦人を、「ひとりの新しい人間として創造」してくださったということです。それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Ⅱコリント5:17)と記されてことに通じます。

同時にここでは、個人が「新しい人間」になるというより、異なった背景を持つ者が組み合わされるという面が強調されています。それは多くの人の心の底にある「変身願望」の実現ではありません。

私たちは自分の個性や民族性をも優しく受け入れながら、自分を「キリストのうちにある者」として見るのです。それはたとえば、ユダヤ人は聖書への情熱を保ちながら、誤った選民意識を捨て異邦人と一つになれるということだと思われます。それは、日本人が誠実さや協調性という美徳を保ちつつ、個性を殺す村意識から自由になり、異なった人々の存在を喜び受け入れるということを意味するのではないでしょうか。

   多くの日本人は、クリスチャンとして生きることを、聖人君子を目指す生き方、誰からも尊敬される人になることかのように誤解しています。しかし、十字架の目的は、何よりも、「隔ての壁を打ち壊し」「敵意を滅ぼす」ことにあったと、ここには記されています。

しかも、「新しい人間」として「創造される」とは、ユダヤ人と異邦人が一つになることができることを何よりも意味していました。つまり、まったく異なった背景を持つ人々が、互いを「キリストのうちにある者」として喜び合えることこそが、「新しい創造」の何よりの意味なのです。

つまり、私たちが目指すべき成長とは、個人の人格的な成長以前に、神の民としての「愛の交わり」としての成長なのです。「救いの実」は、何よりも、人と人との和解に現わされるはずなのです。あまりにも聖い人と見られて、近づき難い感じを与える人は、決して「きよめられた人」とは言えません。

私たちはすべて、人と人とのチームワークを築きながら、社会に影響力を与えるように召されています。そして、一つの組織の力は、そこにどれだけ異なった能力や発想を保ちながら、しかも互いに協力し合えるということに現わされます。多様性の中にある一致こそが、共同体の魅力です。

私たちが、この教会で互いの存在を喜び、祈り合うことができることは、この世界を作り変える原動力になるのです。