ルカ1章「アブラハム契約を成就する救い主」

2017年12月17日
世界銀行のデータによれば、日本の年間起業率はOECD諸国のなかで最下位とのことです。国際的起業家調査では、日本の18~64歳の人口のうち、起業活動を積極的に行っているのはたった1.9%という結果が出ているそうです。一方、現在アメリカでは8人に1人(11.9%)が起業活動に従事しているとのことです。

世界の自動車産業の父とも呼ばれるヘンリー・フォードは何度も失敗しながら、「失敗は、より賢くやり直すためのチャンスに過ぎない」と言いましたが、日本では失敗は一族郎党に及ぶ不名誉と見られがちです。その背景に、主にある冒険を称賛する文化と、目立つことを避け、村社会の調和を大切にする文化の違いがあるのかもしれません。

旧約聖書の物語はイスラエルの不従順と失敗の歴史です。しかし、主はアブラハムとの契約のゆえに、イスラエルを自業自得の破滅から何度も救い出し、最後にイスラエルに救い主を送り、新しい神の民を創造し、神の民を世界中に広げてくださいました。

聖書には、神の永遠の救いのみわざが記されています。それがわかる時、失敗への恐れから解放され、主からの招きに応じて、明日に向かって冒険の歩みをする勇気が湧いてきます。その鍵はアブラハム契約です。

 

1. 「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます」

なぜルカは、イエスの誕生に先立って、バプテスマのヨハネの誕生の経緯を、神殿での祈りから始めて詳しく描いているのでしょう?それは多くの人がここにサムエルの誕生との類似を見ることができるためでした。

ヨハネの母「エリサベツが不妊だった」ように(7節)、サムエルの母ハンナも不妊で悩み、主の宮で祈っていました。その後サムエルはダビデに油を注いで王に任じました。ヨハネはイエスにバプテスマを授けますが、それはイエスをダビデの子として油注ぎをする意味があります。

そしてダビデの子となったイエスは、エルサレム神殿の滅亡を告げ、十字架と復活によって新しい霊的な神殿を建てられます。

 

そして、今、私たちも、その新しい霊的なダビデ王国の民とされています。その始まりは、主の宮での礼拝でした。あなたの人生にも様々な悲しみが起こるでしょう。

しかし、キリストの王国はすでに始まっています。あなたの人生のゴールは喜びに満ちています。王国は今、完成に向かっているのですから。

 

ザカリヤは、「主の神殿に入って香をたく」(9節)務めに着きましたが、そこは、神殿の至聖所を仕切る幕の前で、祭司一人だけが入ることの許された場でした。主は、旧約の最後の預言者マラキ以来、沈黙を続けておられました。

しかも、この神殿は、外見は豪華でも、肝心の十戒の「石の板」が失われたままで、主の栄光は見られません。つまり、忠実に祈り、奉仕し続けても、その反応がまったく見えないのです。

 

ところが、その歴史を変えることが起きます。主の使いがザカリヤが奉仕中の「香の祭壇の右に立ち」(11節)、「あなたの願いが聞き入れられた」(13節)と言います。それは息子の誕生という個人的な願いであるとともに、その子が「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ」るというのです(16節)。

そして、「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます」(17節)と言われます。旧約最後の預言者マラキ書で、主は「わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす。彼は父の心を子に向けさせ」(4:5,6)と言われましたが、それがここで引用されます。

ヨハネこそが新しいエリヤであり、彼は「不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意」するのです(17節)。

 

もともとマラキ書は、「神に仕えるのは無駄だ・・悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」(3:15)と言って、主を礼拝することの空しさを心の中で感じていた当時の人々に向けて記されています。

それに対しマラキは、主に従順に「十分の一」の献金を初めとする教えを誠実に実行することに、正当な報いが与えられると告げます。その結果、「すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」という祝福が実現するというのです(同3:12)。

つまり、イスラエルが主に忠実に仕えることによって、まわりの国々がイスラエルを「神の国」と認めるようになるというのが預言の核心でした。そして、これから生まれるヨハネも、そのように「主に仕える」ことの祝福を証しする預言者となるのでした。

 

ところがザカリヤは、それをそのまま信じることができませんでした。御使いは自分の名をガブリエルと紹介し、彼にヨハネの誕生まで、「口がきけなくなり、話せなくなります」(20節)と告げます。

彼には、人々にこの驚くべき神の救いのご計画を知らせる使命がありましたが、その準備ができていませんでした。

 

妻のエリサベツもみごもって「五ヶ月の間引きこもり」ます(24節)。夫は口がきけませんから、彼女は一人で主の御前に静まり、身に起こったことに思いを巡らしたことでしょう。その結果、自分のことばで、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」(25節)と言いました。これは、サムエルの母ハンナを思い起こさせる告白です。

彼女たちは、「不妊の女」と呼ばれ、人々から馬鹿にされていることに、何よりも心を痛めていました。主は、それぞれの心の痛みを決して軽蔑されることはありません。彼女たちのすばらしさは、主の御前に自分の心の痛みを訴え続けたということにあります。

そして、彼女たちの極めて個人的な心の痛みとイスラエルの痛みは、主の前でひとつになっています。自分の痛みを正直に受け止め、主に訴えることは、世界全体の救いにつながっているのです。

 

2.「主はそのしもべイスラエルを助けてくださいました、アブラハムに語られたとおりに」

「その六カ月目に、御使いガブリエル」が再び処女マリアに現われ、「恐れることはありません・・・あなたはみごもって、男の子を産みます」(26、30、31節)と告げます。しかし、これは恐怖です。彼女はヨセフと婚約していましたから、妊娠は石打の刑に相当する罪を犯した結果と見られます。

ところが彼女は、ただ御使いが語る言葉にじっと耳を傾け続けます。すると御使いは、「その名をイエス(ヨシュア)とつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」(31-33節)と途方もないことを言います。

ヨシュアがかつてイスラエルを約束の地に導き入れたように、イエスは人々を新しい「神の国」に招き入れ、永遠に続く「新しいダビデ王国」が誕生するというのです。

マリアは国の現状に心を痛めていました。外国人の支配のもと、暴力と不正がまかり通り、人々は貧困に喘いでいました。ですから、彼女は救い主が来られるのを待ち望んでいました。しかし、その救い主が、自分の身を通して生まれるということになるなら、「どうか別の人を選んで下さい」と言ったとしても当然かも知れません。

 

しかし、マリアは、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」(34節)と答えました。彼女の関心は、自分の身の安全を守ることではなく、まだ処女である自分から、どのようにして子供が生まれることが可能になるかということにありました。

御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(35節)と答えました。つまり、全能の神の霊、聖霊が彼女の上に下ることによって、彼女は、何と、処女のまま子供を生むことになるというのです。そして、「それゆえ生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」とあるように、生まれる子の本当の父は、神ご自身なのです。

 

そして、「神にとって不可能なことは何もありません」(37節)と言われます。もし、真実にこのことばを腹の底で受けとめるなら、人生は決定的に変わるはずです。多くの人々は、自分の身の安全を優先するあまり、神のご計画に対して自分の心を閉ざすからです。

神は、人をロボットのようには造られませんでしたから、まず自分の心を開かなければ、私たちを通してみわざをなそうとはなさいません。問題は、神が無力なのではなく、あなた自身が、神のみわざを小さくする方向に心を狭めていることにあるのです。

 

マリアの応答の最初は、「ご覧ください。私は主のはしため(奴隷)です」(38節)でした。人は自分の願望をかなえてくれる神を求めてしまいがちですが、それは自分を主人の立場に置くことになりかねません。

その上でマリアが述べた、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」こそ究極の祈りの模範です。英国で普及しているNKJV訳では、「Let it be to me according to your word」と訳されています。ビートルズの「Let it be」は、「自分の計らいを捨て、あるがままに任せる」という意味ですが、このことばは、単なる受け身ではなく、自分自身を差し出すという大胆な姿勢です。

キリストは、この祈りの応答を通して、人となられました。そしてエリサベツはマリアを「私の主の母」(43節)と呼びました。つまりマリアは、自分を「主のはしため」として差し出した結果、「主の母」となったのです。私たちも自分を「主のしもべ」として差し出すなら、神は私たちを通して、思いを超えた働きをなしてくださるのです。

 

46-55節は、マグニフィカートと呼ばれるマリアの賛歌です。彼女は「私のたましいは」「私の霊は」(46,47節)と、全身全霊で神を「あがめ(マグニファイし)」ます。そこには自分が救い主の母になるという気負いはありません。

彼女は「(主は)この卑しいはしために目を留めてくださった」(48節)という点にのみ心を向けます。そしてその後の様々な困難を覚悟しながらも、最終的な祝福を信じ「今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と思うでしょう」という希望を告白します。その根拠は、「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」(49節)からです。

そして続けて「主の力」、「主の聖さ」、「主のあわれみ」に目を向けつつ(49,50節)、「主は・・高ぶる者を追い散らされ・・低い者を高く引き上げ・・飢えた者を良いもので満ち足らせ、富むものを・・追い返され」と神にある逆転を歌っています。その神のみわざに身を差し出せば良いのです。

 

しかもマリアは、「(主は)そのしもべイスラエルを助けてくださいました」とまず断言します。それは主が自分の産む子を通してダビデ王国の祝福を再興してくださると信じたからです。しかもそれは、「主があわれみを忘れず、私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫たちに、永遠に語られたとおりを行う」からです(54,55節私訳)。

ここにある、主が「アブラハムとその子孫たちに語られた」ことの中心は、「あなたの子孫を大いに祝福し・・空の星、海辺の砂のように大いに増す。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」(創世記22:17,18)ということにあります。

 

それは目に見えるダビデ王国をさらに超えた「神の国」の実現を意味します。当時のユダヤ人はローマ帝国からの独立を待ち望んでいましたが、アブラハム契約の核心は、ローマ帝国の支配者たちが、アブラハムの子孫の前にひざまずき、それによって祝福を受けるということを意味します。

ダビデ王国の再興という小さなものではなく、イスラエルを通して異邦人がイスラエルの神をあがめるようになることなのです。そして、それはこの三百年後に、ローマ皇帝がイエスを真の王と認めたことによって実現しました。

マリアの賛歌に記された主の救いのご計画は、目に見えるダビデ王国の復興を超えたこと、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)という「永遠の」アブラハム契約に立ち返るものでした。

 

3.「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」

「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ」(57節)と報じられます。人々は生まれる子が父の後を継ぐ祭司として同じ名を受け継ぐと期待していましたが、母は意外にも「ヨハネ」という名を主張しました。それはヘブル語で「ヨハナン」(主は恵み深い)で、珍しい名ではありません。しかし、「あなたの親族にはそのような名の人は一人もいません」(61節)と言われたように、家の枠組みを超えた名前でした。

それで、ザカリヤの意見を聞いたところ、彼も「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚きました。それは御使いガブリエルから告げられた名に従ったことでしたから(13節)、「ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた」(64節)のでした。

しかも生まれる子の名前をあらかじめ告げられることは、サムソンやサムエルの場合でさえ無かったことでした。それで人々は「いったいこの子は何になるのでしょうか」(66節)と言います。両親とも「神の前に正しい人」(6節)であり、神殿での働きに忠実でしたから、人々はこの子を通して神の栄光が神殿に戻って来ることを期待したことでしょう。

 

68節から79節は、「ザカリヤの賛歌」または、最初の「ほむべきかな」のラテン語から「ベネディクトス」と呼ばれます。これはザカリヤが、「聖霊に満たされて預言した」(67節)ものです。その中心は、「イスラエルの神、主が」、「その御民を顧みて、購いをなし」ということにあります(68節)。

「顧み」とは「訪問」を意味し、「贖い」とは代価を払って人を奴隷状態から解放することです。それは当時としては、イスラエルから離れておられた神である、「主(ヤハウェ)がシオンに戻られ・・・聖なる御腕を現わされ」(イザヤ52:8、9)、イスラエルを外国の奴隷状態から解放することを意味しました。それはかつてイスラエルがエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に導かれ、ダビデのもとで繁栄したのと同じ状態を回復することと思われました。

 

そのために「ダビデの家」に「救いの角」(69節)が立てられます。「角」は、力と勇気の象徴で、ダビデの家系から力強い指導者が現れ「救い」を実現してくださることを意味します。そのことはサムエルやイザヤなどのすべての「聖なる預言者」を通して語られていたことでした(70節)。

しかもその「救い」とは、イスラエルの「敵」、すなわち、「私たちを憎むすべての者の手から」の解放として描かれます(71節)。そして、「主は私たちの父祖たちにあわれみを施し」(72節)の「あわれみ」とは先のマリアの賛歌の「主はあわれみを忘れずに(覚えておられ)」(54節)という時のことばと同じで、ここでは「ご自身の聖なる契約を覚えておられた」と言い変えられます。つまり、「あわれみを忘れない」ことと「契約を覚えておられる」ことは同じことを意味しているのです。

そしてその「契約」が、「私たちの父アブラハムに誓われた誓い」と言い変えられます。ここにアブラハム契約が、主が「誓われた誓い」と呼ばれているのは興味深いことです。神の救いのご計画とは、アブラハム契約を成就するということに他なりません。それはマリアの賛歌の場合と同じです。

 

そして「契約」の内容が、「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」と記されます(74節)。「敵の手からの救い」とは、先に引用したアブラハム契約で「あなたの子孫を大いに祝福し・・あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」と約束されたことと同じです。

それに続いてそこでは、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受ける」と約束されていました。つまり、先にも述べたように、目先の救いは「敵」との関係で描かれますが、その目的は、当時の戦争のように「敵を奴隷として、私たちに仕えさせるようにする」ことではなく、私たち自身が「恐れなく主に仕えられる」ようになることで、地のすべての国々に祝福を取り次ぐことにあったのです。

そしてこの75節では、「主に仕える」という生き方が、「私たちの日々の生活において、主の御前で、敬虔に(聖く)、正しく(真実に)」と描かれます。これは、「主に仕える」生活の「聖さ」や「真実さ」を通して、「地のすべての国々」の民に祝福を取り次ぐことを意味します。

実際、初代、古代教会においては、敵の脅しに屈しないキリスト者の勇気や、互いに愛し合う姿、交わりに社会的弱者を招き入れつつ、性的な純潔を守るという聖さに人々は引き寄せられて、次から次と信者の数、すなわち、アブラハムの子孫が増えて行ったのです。

アブラハム契約の目的はすべての国々の祝福の源となることなのに、当時のユダヤ人は敵を服従させることしか見えていませんでした。

 

主の救いは「敵の手から」のものと描かれますが、私たちの「」とは、外国人ではなく、人々を偶像礼拝に駆り立てるサタンの力です。当時の王国は、「剣」で人を脅し服従させていましたが、その背後には、「死の力を持つ者、すなわち悪魔」がいました。

イエスの救いはこの悪魔による「死の恐怖」からの解放としても描かれます。それはヘブル人への手紙2章14,15節に、「そういうわけで、子たちがみな血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」と記されているとおりです。

ここに、主の十字架が、サタンによる死の脅しの力に対する勝利であった描かれています。事実、ローマ帝国の中にクリスチャンが急速に増えて行ったのは、初代教会の信者たちが、死の脅しに屈することなく、人々に祝福を取り次いだ結果でした。

 

先に、「主(ヤハウェ)がシオンに戻られ・・・聖なる御腕を現わされ」(イザヤ52:8、9)たという預言を引用しましたが、そこで「主の御腕は」「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」という苦難のしもべに現わされると預言されていました(同53:3)。そして、その方がそのような惨めな姿となられたのは、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担った・・・主(ヤハウェ)は私たちすべてのものの咎を彼に負わせた」結果であったというのです(同53:4)。

そして、このルカでは続けて、バプテスマのヨハネの働きに関して、「罪の赦しによる救いについて、神の民に知識を与えるからである」(77節)と記されます。神殿での祈りから生まれたヨハネは、人々の心を神に立ち返らせるために、神殿でのいけにえではなく、ヨルダン川でバプテスマを施しました。それは、神殿の否定ではなく、ヨルダン川を渡らせて約束の地に導き、ダビデ王国を立ててくださったアブラハム契約の原点に立ち返らせる働きでした。

ダビデが築いた王国の本質とは、「敬虔に、正しく、すべての日々において、主に仕える」自由にあったからです(75節)。そのための前提こそ「罪の赦しによる救い」だったのです。昔のイスラエルの民が外国人の奴隷状態に落ちたのは、彼らの罪が原因でした。

バプテスマのヨハネは、イスラエルに真の罪の赦しの道を指し示して、イスラエルを真のアブラハムの子孫へと立ち返らせ、イスラエルを通して世界中の人々が神の民となる道を開いたのです。そして、イエスの弟子の集団こそ、真のイスラエルでした。そこから神の民が世界中に広がったのです。

 

この歌の最後では、「曙の光が・・訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」(78節)と歌われます。私たちに与えられた「救い」とは、目の前から「暗闇と死の陰」がなくなることではなく、イエスにあって新しい時代が到来したという確信にあります。

それは「曙の光」が既に照り始め、アブラハム契約の完全な成就へと導かれているとの確信に満たされ、自分を守るために戦う代わりに、自分の損得勘定を超えた平和の器として生きることが出来るようになることを現わしているのです。

 

イエスの時代のユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配から独立したダビデ王国の実現を待ち望んでいました。しかし、聖書が描くダビデ王国とは、地上的な権力の支配というのではなく、矛盾のただなかで、敬虔に、正しく主に仕える人々の集まる、主を礼拝する「神の国」でした。

そして、主を礼拝するとは、主が最終的にこの世界を平和に満ちた世界へと変えてくださるという確信を深めることでもあります。私たちの目の前にはいろんな不安材料がありますが、主は、一歩一歩私たちを導いていてくださいます。それは主が「アブラハムに誓われた誓い」を守り通してくださるという、聖書の物語の中に見ることができます。