Ⅰサムエル4章〜7章「礼拝の場を壊して礼拝を建て上げる神」

2017年8月20日

どの宗教にも荘厳な儀式がつきものです。ただ、そこで語られている言葉が普通の人には理解できないということが不思議です。

たとえば、仏教の最も有名な経典の般若心経では、「色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是」と唱和されます。そこでは、形あるもの全ては実体がなく、実体がないものが形を持っており、それは人の感覚、想像、行動、認識の全てに当てはまることであり、そのように移ろい行くものへの囚われから心が自由にされるなら、毎日を平安のうちに暮らすことができるという、生活の知恵のことばです。

ですから、誰が考えてもこれは死者に向けてではなく、生きている人々が聞くべき言葉です。

しかし、それを誰からも批判されないような正確な翻訳をすることは不可能です。そのため漢文のまま唱えられます。これはイスラム教のコーランなどでも同じで、この場合は翻訳すると聖典ではなくなってしまいます。

それに対して、聖書はイエスの登場の前にすでにヘブル語からギリシャ語への翻訳が認められ、イエスの弟子たちもその翻訳を引用しています。しかし、これだって、たとえばダビデの詩篇を翻訳しきれるかというと、ほとんど不可能とも言えます。聖書では、基本的に、すべての儀式もまた礼拝に用いられる聖具もその意味が理解されるようになっています。それは神が、私たちの知性の創造主であるからです。

私たちに何よりも求められていることは、神のために何かの犠牲を払うことよりも、神のみことばの意味を心から納得することです。私たちの心が「神の愛で満たされる」ことこそ、すべての出発点です。

ダビデが記した詩篇には、私たちの微妙な心の動きが驚くほど詳細に描かれています。しかし、ダビデのそのような素晴らしい信仰の歌は、サムエルがいなければあり得なかったことは確かです。

そして、主はサムエルの時代に、礼拝儀式を一時的に廃止し、ご自身のみことばの原点に立ち返らせたのです。

1.契約の箱が奪われ、祭司エリの家が滅びるという悲劇

「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て……戦いが始まるとイスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれた」(4:1、2)という表現に、神の不思議なご計画が見られます。

少年サムエルが祭司エリのもとで主(ヤハウェ)に仕え始めた頃、「(ヤハウェ)のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(3:1)のですが、そのようなとき主はサムエルにご自身を現わされました。彼が、「お話しください。しもべは聞いております」(3:10)という中で語られたのは、何と、祭司エリの家を永遠にさばくということでした(3:11-14)。

そしてその後、「サムエルは成長した。(ヤハウェ)は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった……(ヤハウェ)再び(続けて)シロで現れた。(ヤハウェ)のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現されたからである」(3:19-21)と記され、その後、主とサムエルのことばが意外な形で成就してゆく様子が描かれます。

つまり、主がイスラエルをペリシテ人の手に渡されたのは、サムエルが主の預言者であることが全イスラエルに知られた後だったというのです。そして、それと同時期に、祭司エリの家がこの戦いを通して滅びます。

この戦いの最初に大きな犠牲を出して、「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは」、「なぜ主(ヤハウェ)は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう」と言います。しかし、これは主のご支配を認めているように見えても、「なぜ……」と尋ねながら、真に「主に聴こう」としてはいません

それですぐに、彼らは、「シロから主(ヤハウェ)の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう」(4:3)と言います。不思議にも、「主(ヤハウェ)というよりも、「契約の箱」自体が自分たちを敵の手から救うかのような曖昧な表現になっています。

契約の箱はシロから陣営まで約30㎞余りの距離を運ばれましたが、その様子が原文の順番では、「彼らはそこから、かついで来た。(ヤハウェ)の契約の箱を、その万軍の主はケルビムに座しておられる」と記されます(4:4)。つまり、この箱は、主との契約を思い起すためのものであり、主ご自身は万軍の主で、この箱の中におられるのではなく、ケルビムに座しておられるというのです。

ケルビムは翼を広げて移動する生き物ですから(エゼキエル10:15-17)、主ご自身が祭司の肩にかつがれているわけでは決してないのですが、彼らは異教的なお神輿のように考えていたのです。

そして、そこでは、「エリのふたりの息子も、神の契約の箱とともに来た。ホフニとピネハスも」と敢えて記されます。ホフニとピネハスは、主の栄光の表わす祭司服と共に堂々と振る舞っていたことでしょう。

なお、契約の箱自体の大きさは、長さ1.1m、幅と高さがそれぞれ66㎝程度で、その上に翼を広げて向き合う一対の金のケルビムが置かれていました。

そして、「主(ヤハウェ)の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声を上げた」(4:5)と描かれます。ここでは、主(ヤハウェ)または神との契約の箱と、その意味が三回にわたって明確に記されますが、この後は、「契約」ということばが省かれ、「主(ヤハウェ)の箱」、あるいは「神の箱」とのみ呼ばれるようになります。そこには、ケルビムに座す万軍の主(ヤハウェ)が箱から去っているというニュアンスが込められています。

ところがそこで、ペリシテ人は、「神が陣営に来た」と言って、「恐れ」を抱き、そこで逃げ場がないと思った彼らは、「男らしくふるまって戦え」と互いに鼓舞し合います(4:9)。

その結果、何と、「イスラエルは打ち負かされ」たばかりか、「非常に激しい疫病」に襲われ、「歩兵三万人が倒れ」ます(4:10)。それは彼らの敗北が、ペリシテ人の勇気によってではなく、主のさばきによるものであることを明らかにするためでした。

そして、何と「神の箱は奪われ、エリのふたりの息子……は死んだ」のですが(4:11)、その報せを聞いたエリも死に、息子の嫁も出産しつつ、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから」(4:22)と言います。確かに契約の箱は、(ヤハウェ)ともにおられることのしるしでした。

しかし、「主はサムエルとともにいた」のですが、このときイスラエルと共にはいませんでした。主の栄光が去ったのは、契約の箱が奪われたからではなく、彼らが主のことばに聴こうとしなくなったことの結果でした。

実際、契約の箱に収められていたのは、主ご自身の手で記された「十のことば」であり、この箱自体に神秘的な力が込められていたわけではありません。それは「主のことばによって、主がご自身を……現される」(3:21)ことのしるしでした。ですから、主のみことばを聴こうとする姿勢のない人々の中に、主の栄光はとどまりませんでした。

エリの家は、「契約の箱」があるからこそ、礼拝を導く祭司として、様々な特権を享受できました。ですから、その家が滅ぶことと、「契約の箱が奪われ」ることは同時に起きました。

後に、主はエレミヤを通して、「さあ、シロにあったわたしの住まいに、先にわたしの名を住まわせた所に行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ」(エレミヤ7:12)と言われました。不思議にも、主はご自身の臨在のシンボルを失わせることによって、みことばに聞くことの大切さを教えてくださったのです。

2.主ご自身が、ご自身の契約の箱を動かされる

ペリシテ人は、「神の箱」をさらに50㎞ぐらい南にあるアシュドテの「ダゴンの宮に運び」ます(5:1,2)。それは、この戦いの勝利が、ダゴンがイスラエルの神に勝利したことの現れであると告白することを意味します。

ところが、翌日、ダゴンの偶像が「主(ヤハウェ)の箱」の前に、「うつぶせに……倒れて」いました(5:3)。これは、ダゴンが主の御前にひざまずくしかない存在であることを表わします。それの意味が分からずに、ペリシテ人は再びダゴンをもとのところに戻しますが、次の日には、今度は、「頭と両腕が切り離されて」いました(5:4)。それは偶像が、頭も手もない無能な者であることを思い知らせるためでした。

そればかりか「(ヤハウェ)の手はアシュドテの人たちの上に重くのしかかり……(彼らを)腫物で打って脅かし」ます(5:6。

それを見たペリシテ人は、「とどめておいてはならない。イスラエルの神の箱を、私たちとともに。なぜなら、その手が冷酷だから、私たちと私たちの神ダゴンに対して」(5:7)と述べます。彼らはまるで、神の箱の「手」が自分たちとダゴンの上に伸ばされ、危害を与えると思ったのです。

その後、「神の箱」はそこから20㎞ぐらい東にある町ガテに移されますが、そこでも「主(ヤハウェ)の手はこの町に下り……この町の人々を……みな打ったので、彼らに腫物ができた」(5:9)のでした。その後、神の箱がガテの北10㎞ぐらいにあるエクロンに送られると、その町の住民は恐慌に陥ります。

そこでペリシテ人の領主が全部集められ、「神の箱」をイスラエルに送り返す方法を検討します。ただ、その間にも、「神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫びは天にまで上った」と描かれます(5:11,12)。

皮肉にも、ペリシテの神の勝利の記念として奪われた契約の箱が、わざわいの種となったことです。

そのような中で、「主(ヤハウェ)の箱は七カ月もペリシテ人の野(地)にあった」と記されます(6:1)。これは主の箱がペリシテ人の地にあった全期間を指しています。七とは完全数ですから、それはペリシテが「主(ヤハウェ)の手」によって徹底的に苦しめられたことを指します。

これと出エジプトの際に主の手がパロの上に下って、パロがイスラエルの民を解放した話とが重なっています。

彼らの祭司や占い師たちは、主への「償い」(6:3)のために「五つの金のねずみ」(6:4)を作って、それを添えて送り、「イスラエルの神に栄光を帰する」(6:5)ことを勧めます。ペリシテ人を襲った腫物がネズミを媒介とするペストであったとすれば意味が分かります。実際4節では、「金の腫物、すなわち……金のねずみ」と記されているからです。

そのわざわいの背後に、イスラエルの神の御手があることを認めることで、主に栄光を帰することにつながります。それにしても、ここでは彫像の意味を詮索するよりも、ペリシテ人が主(ヤハウェ)に償い、栄光を帰する必要を感じたことを注目すべきでしょう。

しかも、ここでは「エジプト人とパロが心をかたくなにした」(6:6)ことによって被害を拡大したことが思い起こされています。彼らは不思議なほどイスラエルの歴史を知っていました。

彼らは、「一台の新しい車を仕立て」、まだ「乳を飲ませている二頭の雌牛」に引かせ、主(ヤハウェ)の箱を載せます(6:7,8)。本来、雌牛は引き離された子牛に向うはずですが、イスラエルの領地 「ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、泣きながら進み続けた」6:12)というのです。

この町はエクロンから東に十数㎞にあり、エルサレムの西30㎞ぐらいにあるイスラエルの西端に位置していました。これは主ご自身が、雌牛の本能に反する道を歩ませ、ご自身の力でイスラエルに戻られたことを意味します。

イザヤ46章1,2節には、偶像の神は家畜に運ばれるだけだと記されますが、主はご自身の契約の箱をご自身の力で動かされたのです。

同じように、主は、私たちの信仰心によって担われるような方ではなく、私たちの心を担い、動かし、信仰を生み出してくださる神です。主は私たちに向って、「胎内にいるときから担われており、生まれる前から運ばれた者よ……あなたがしらがになってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(同46:3,4)と言われます。

ところで主はベテ・シェメシュの住民をも「打たれ」ました(6:19)。ここはレビ族の町だったはずですが(ヨシュア21:16)、彼らが不敬虔にも「主の箱の中を見た」からです。祭司以外の者はその外側さえ見ることができないと命じられていたのにも関わらず(民数記4:20)、何と主のみ教えに無知であったことでしょう。

彼らは喜んで「主(ヤハウェ)の箱」を迎えたのにも関わらず(6:13)、今は、「だれがこの聖なる神、主(ヤハウェ)の前に立ちえよう」(6:20)と言わざるを得なくなり、「私たちのところから、だれのところに上って行かれるのか」と、主ご自身の動きを見守るしかありませんでした。

彼らは初めに「主(ヤハウェ)に聴く」という姿勢が求められていたのです。私たちにも、主がともにいてくださることを求める以前に、その謙遜さが問われます。また主は、雌牛を動かされたように、私たちの行き先を導くことができますが、人の心はいかなる生き物よりも「かたくな」ですから、主のみことばがこの心を動かすことができるように、力を抜いて待つことが何よりも大切でしょう。

3.「ここまで主(ヤハウェ)が私たちを助けてくださった」

キルヤテ・エアリムはベテ・シェメシュとエルサレムのまさに中間地点にある町ですが、その町の人々は恐れをもって「主(ヤハウェ)の箱を運び上げ」、「アビナダブの家」に安置します(7:1)。それがダビデの時にまでそこに留まります(Ⅱサムエル6:2、3)。

そして、それはアロンの子孫の家だと思われ、「彼の子エルアザルを聖別して、主(ヤハウェ)の箱を守らせた」と記されます。「主(ヤハウェ)の箱」がここに運ばれたのは、契約の箱の意味をよく知っているこの家の存在があったからと言えましょう。

そして、「その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった」(7:2)と記されます。「二十年」が、箱がそこにとどまった全期間(ダビデのとき)を指すのか、それともサムエルの登場までのときを指すのかは明らかではありません。ダビデの時はもっと後に思えますし、サムエルの沈黙の期間が二十年もあったと考えるのも無理があります。4章1節で「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡った」という文脈があるからです。

どちらにしても、神の箱が戻ってきたことによってイスラエルが救われるのではありませんでした。この転換点は何よりも、「イスラエルの全家は主(ヤハウェ)を慕い求めていた(求めて嘆いていた)」(7:2)と記されていることです。

そして、その叫びに主が答えることから救いが始まります。これこそ、主が一時的に、主の契約の箱をペリシテ人たちに奪われるのに任せたことの意味です。主は民の叫びを待っておられました。

ここに再びサムエルが登場し、イスラエルの全家に対し、「心を尽くして主(ヤハウェ)に帰り、あなたがたの間から外国の神々……を取り除き、心を主(ヤハウェ)に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます」(7:3)と迫ります。

そして彼らがサムエルのことばを受け入れます。それで彼はイスラエル人をみなミツパに集めます。彼らは、断食をしつつ「私たちは主(ヤハウェ)に対して罪を犯しました」(7:6)と悔い改めました。

ただ、「イスラエルの民がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに攻め上った」(7:7)と記されます。かつての手痛い敗北を経験したイスラエルの民は、恐れて、サムエルにすがります。彼はそこで、子羊一頭を全焼のいけにえとして主にささげます。

そこで、「サムエルはイスラエルのために(ヤハウェ)に叫んだ。それで(ヤハウェ)彼に答えられた」(7:9)という典型的な主の救いのパターンがしるされます。

そして、このときペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいてきたとき、主ご自身が「ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた」(7:10)という、奇跡的な主の救いが描かれます。この戦いの描写は驚くほど簡潔ですが、これはヨシュアの時以来の初めてのペリシテ人に対する勝利でした。

それを記念して、サムエルはひとつの石を取り、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主(ヤハウェ)が私たちを助けてくださった」(7:12)と言います。そして、「サムエルの生きている間、主(ヤハウェ)の手がペリシテ人を防いでいた」(7:13)と記されます。

サムエルが主導した戦いはこの一度だけでしたが、イスラエルの民がサムエルを通して語られる主のみことばに従っていた時、「主(ヤハウェ)の手」がイスラエルをペリシテ人の攻撃から守っていたというのです。大切なのは、主のみことばを聴くということだったからです。

そして、「彼は毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、それらの地でイスラエルをさばき、ラマに帰った」と描かれます。ミツパはエルサレムから10㎞ぐらい北の町、ギルガルはそこから約30㎞近くも離れた東のヨルダン川に近いイスラエルのカナン占領の際の出発点の地、ベテルは5㎞程度北にあるヤコブの記念碑の地、ラマはミツパの直ぐ南の町です。

「さばく」とは「治める」という意味です。サムエルは人々に主のことばを語り、民はそれを聞いて互いに愛し合い、イスラエルが政治的に安定したのです。

ただし、「彼はまた、そこ(ラマ)に主(ヤハウェ)のためにひとつの祭壇を築いた」(7:17)とあるように、契約の箱を中心とした幕屋礼拝を復興はしていません。それを行なうのは、彼によって王の任職を受けたダビデでした。

この時は、主のみことばに聞くことを教えることこそが先決だったからです。彼らは契約の箱を前にした礼拝において罪を犯し続けたばかりか、それを偶像のように扱い、それによって敵に勝てるなどと誤解したからです。彼らは主に聴き従うよりも、自分の欲望のために主を利用しようとしたからです。

今、聖餐台に1545版のルター訳の聖書が飾られています。宗教改革とは、みことばの回復だったからです。その前の教会ではみことばは民衆が理解できないラテン語で朗読されるだけでした。

ルターは次のように語っています。「私は免罪符と教皇制に反対したが、いささかも力ずくではしなかった。私は神のことばを伝え、説教し、そして書いただけである。それ以外何もしなかった。私が眠っている間に……みことばが全部行い、成就させた……」と。

彼は、聖書翻訳に心血を注ぎました。その結果、みことばが人の心を動かし、教会を根底から変えたのです。私たちには、神のご臨在を現し、礼拝を豊かにするための様々な施設が必要かもしれません。しかし、「どうしても必要なものはただ一つだけです」(ルカ11:42)とあるように、みことばが教会堂を建てるのであって、建物があれば教会ができるわけではありません。

また教会には秩序が大切ですが、ルールが礼拝者を整えるわけではありません。みことばが礼拝者を創造するのです。

確かに私たちの教会にはいろんな欠けがあり、必要があります。しかし、みことばが正しく解き明かされ、正しく分かち合われている限り、私たちの交わりには無限の可能性が広がっているのです。

そしてルターが始めたもう一つのことは、人々が理解できる言葉で歌うことでした。讃美歌は何よりも私たちの心に語られる神の教えであり、神への賛美は、その結果として心に湧きあがるものなのです。