神のかたちとして生きる

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2017年夏号より

霊性の神学で世界的に有名になっているカナダのリージェント・カレッジの創立学長、ジェームス・フーストン氏の新刊「キリストのうちにある生活 – 日本と欧米との対話の向こうに」の翻訳監修を引き受け、この約二か月間、大変な思いをしてきました。万葉集から大江健三郎、その他、世界中の哲学者、神学者からの数多くの引用文献があり、少しでもその意味を理解しないと翻訳できない文章が多かったからです。

私たち日本人のクリスチャンは、欧米から学ぶべきことばかりに目が向かい、異教的な日本文化を否定的に捉える傾向が強いと思います。しかし、フーストン氏は、「すべての人間は、神のかたちに創造された」という観点を何よりも強調し、たとえば、米国のクリスチャンは、日本が大切にしてきている「和」精神、情緒を大切にする「甘えの文化」、模倣を重視した浸透教育、高齢者への尊敬、「沈黙によるコミュニケーション」などから多くのことを学ぶことができるはずだと、本著で強調しています。福音は、個人主義的な欧米の文化の中でも歪められている面があるからです。

もちろん、私たちは、戦前の日本のキリスト教会が「日本的キリスト教」の名のもとに天皇崇拝や神社参拝に妥協した歴史を忘れてはなりません。そして、現代の日本で懸念されている「右傾化の流れ」にも目を見張る必要があります。しかし、私たちは現実に、日本文化の中で生かされ、無意識のうちに様々な価値観を身体と心に刷り込まれています。その感覚と無縁に生きることはできません。私たちは改めて、聖書的な価値観から、何を受け継ぎ、何に注意を払うべきかを考える必要があります。

たとえば、「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(箴言19:22) というみことばがあります。「変わらぬ愛」とは、誠実さ、真実さとも訳すことができます。そして、それは「神のかたち」に創造されたすべての人間が心の底で求めていることであるという意味です。そして、それは日本文化が大切にしてきた価値観でもあります。「和」というのも、村社会的な強制力の恐ろしさがありますが、同時に、それは私たちが心の底で求めている「シャローム」(平和、平安)の一部を表わした観念でもあります。「甘え」という概念も、イザヤ66章で、エルサレムの復興の姿が、「あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる」(66:12) という表現があるように、神のふところにある平安への憧れを表現している観念です。

実は、「神のかたちとして生きる」とは、真の意味で、「人間らしく生きる」ことを意味するのです。それは自分の感性や感情を優しく受け止めることであり、また、人と人との心のふれあいを大切にすることです。実は、真に人間らしい生き方とは、キリストのうちに見られるものであると、フーストン氏は繰り返しています。私たちは「キリストの霊」を受けて、異教文化と対決するというよりは、この世の人々の人間的な情けや悲しみ、喜びに寄り添いながら生きるように召されているのです。異教徒も私たちも、ともに「エデンの園の外に生きている」ということでは共通しているからです。ただ、同時に、私たちは「キリストの霊を受けている者」として、この世が提供する平安ではなく、三位一体の神の愛に包まれている平安(シャローム)のうちに、神のシャローム「平和」が完成する世界に向かっているという揺るぎない希望を持つことができます。

私たちに与えられた救いを、もっと幅広い観点から見るために、今回の本が豊かに用いられるようにお祈りいただければ幸いです。