ヨシュア4章〜6章「新しい創造を、記念する」

2017年2月5日

私たちはみな、どこかで神のすばらしいみわざを体験しているからこそ、イエスにつながっているのではないでしょうか。

しかし、ときに、「あの頃は、神の臨在を身近に感じていたのに、今は、私の心は渇いたままだ・・・どうしたら、信仰の喜びを回復できるだろうか?」と悩むことがあるかもしれません。その際、その「体験の記憶」を繰り返し思い起こし、「新しい創造」として「記念」することこそ神の命令です。

聖書はそのような「記念」のための祭りを毎年、同じ日に祝うことを命じています。すべての「祭り」の目的は、一度限りの神のみわざを「記念」することにあります。信仰の喜びと幸いは、そこにあると言えましょう。

一方、恩知らずな生き方は、自分で不幸を招いています。亡き義父は、あの悲劇のインパール作戦からの撤退の際、ビルマの大河を前に怯えていました。その時、上官が命綱を結んで励まし、渡らせてくれました。彼はその綱を生涯保管し、「記念」とし続けました。そして満足しつつ生涯を終えました。

あなたの前にも渡れないと思えた人生の川があったかも知れません。それを忘れてはいませんか?

1.主がヨルダン川を渡らせてくださった記念の「十二の石」

「契約の箱」を先頭にヨルダン川を渡った際、主が川をせき止められた様子が簡潔に描かれていました(3:15,16)。そしてその後、主(ヤハウェ)がヨシュアに、「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し・・・ヨルダン川の真ん中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り・・・宿営地にそれを据えよ」(4:2、3)と命じられたと記されます。

そして、彼がそのことばをそのまま民に向って繰り返す様子が描かれ(4:5)、同じ言葉の繰り返しが目立ちます。彼はその目的を、「それがあなたがたの間で、しるしとなるためである」と述べ、その意味を「子どもたち」に、「これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ」(4:7)と伝えるようにと語ります。

そして、「イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり・・ヨルダン川の真ん中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた」(4:8)と強調されます。つまり、川の水がせきとめられたという奇跡の様子以上に、それが「記念」とされることの方に強調点が置かれているのです。

しかもこれらの箇所では、主の命令、ヨシュアの取り次ぎ、民の服従という三段階において敢えて同じ表現が繰り返され、主のみことばが、正確に取り次がれ、実行されたことが強調されています。

そればかりか、9節では原文の語順では、「十二の石をヨシュアは立てた。それは、ヨルダン川の真ん中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの下にあった。それが今日までそこにある」と記され、読者が「十二の石」を見てそれを思い起すことができることが強調されています。

そして10、11節の原文の語順は、「箱をかつぐ祭司たちは、すべて終わるまで、ヨルダン川の真ん中に立っていた。それは主がヨシュアに命じて民に告げさせたことであり、すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。民がすべて渡ることを終えたとき、主(ヤハウェ)の箱と祭司たちは民の前を渡った」と記されています。

不思議にもモーセの名がここに登場し、彼が神に従ったように、ヨシュアはモーセに従い、また民がヨシュアに従ったという従順の連続性が強調されています。

しかも、成人男性だけで60万人にも及ぶ大集団の移動はごく簡単な描写で、「主の契約の箱」が「渡ったことばかりが強調されます。いつ石が集められたかなども分かりません。中心は、主の命令が実行されたかということです。

12-14節ではヨルダン渡河後の隊列や4万人という軍勢、ヨシュアの権威が認められたことなどが記されます。そして15-18節では、主がヨシュアに「川から上がって来させよ」と言われ、彼が「川から上がって来なさい」と命じたと敢えて描かれ、「祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった」という劇的な奇跡が簡潔に記録されます。

とにかくその間、祭司たちは、今にも堰が切れそうな川の真ん中にじっと留まり続けたことが思い浮かぶように記されています。そこでは祭司たちの従順さこそが鍵でした。

「十二の石」は、記念としてギルガルに据えられ、21-24節では、6,7節にあったのと同様にイスラエルの人々が自分の子供たちに、この石の起源を語るべきことが命じられ、イスラエルの民はその意味を思い起し続けることが命じられます。

そしてその意味が、「葦の海」が分かれてイスラエルがエジプトの追っ手から救い出されたことと「同じである」と描かれます(4:23)。それによって、「地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れる」(4:24)というのです。

海が二つに分かれることも、ヨルダン川がせき止められることも、ただ一度限りのことでした。繰り返されるべきことは、奇跡ではなく、その記憶であり、その目的は、私たちが「主を恐れる」ということなのです。

そして、私たちも、新しいヨシュア(イエス)に従って、今の世界と「新しい天と新しい地」を隔てる川を既に渡り終え、「永遠のいのち」の中に入れられたという霊的現実を覚えるべきです。

私たちにとってはイエスの十字架と復活に結びつくことがヨルダン川を渡ることに相当し、「新しい創造」の始まりでした。

2.出エジプトの原点に立ち返る記念としての「割礼」と「過越の祭り」

カナンの王たちはヨルダン川を天然の要害として頼りにしていましたが、これによって、「心がしなえ・・・もはや勇気がなくなってしまった」(5:1)と描かれます。

ヨルダン川を背にしたイスラエルに彼らが襲いかかっても不思議はないのに、敵地のただ中でイスラエルの安全が確保されたというのです。

その上で、主は、契約の民のしるしとしての「割礼」を命じます(5:2)。不思議なことに、過去四十年間に「荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかった」(5:5)という異常事態が続いていました。

その間、主は、「エジプトから出てきた・・戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまった(原文「完了した」)」(5:6)のを待っておられたかのようです。それは、彼らがかつて、カナン人を恐れてカデシュから北上することを拒んだことへの「さばき」が成就することでした。

そして、「民のすべてが割礼を完了したとき」(5:8)、主はヨシュアに「きょう、わたしはエジプト(から出てきた民)のそしりを、あなたから取り除いた(直訳「ころがした」:「ギルガル」という地名の語源)」(5:9)と言われながら、約束の地に生き始めることの祝福を告げました。彼らが割礼を「完了した」ことは、さばきが「完了した」ことを意味したかのように描かれています。

なお、割礼と洗礼(バプテスマ)には類似点があります。それは、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです・・・バプテスマによってキリストとともに葬られ・・キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:11,12)とある通りです。

「割礼」は契約の民とされたことのしるしでしたが、バプテスマには割礼とは比較できないほど、罪へのさばきが「完了した」というしるしが伴っています。そればかりか「バプテスマ」は、私たちが不条理に満ちた世界のただ中で、既に「新しい天と新しい地」に入れられた者としての生き方を始めたというしるしです。

バプテスマはイエスの先駆けであったヨハネに由来しますが、ヨハネが敢えてヨルダン川でバプテスマを施していたのは、このイスラエルの民のヨルダン渡河の原点に立ち返らせるためでした。

イスラエルの民がヨルダン川を渡ったのはエジプトを出て41年目の「第一の月の十日(4:19)でしたが、その四日後の「十四日の夕方」、「エリコの草原で・・過越を行ない」ました(5:10私訳)。原文では「いけにえをささげた」ではなく「過越しを行なった」と記され、その強調点は思い起こすこと自体です。

出エジプトの際の最初の過越のいけにえの「血」は、「主(ヤハウェ)がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主(ヤハウェ)はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者が・・・家の中に入って、打つことがないようにされる」(出エジ12:23)という「救い」のために用いられました。それは一度限りのことで、その後の過越しの祭りでは、血をかもいと門柱に塗るようなことはしません。中心は、羊をほふって、それを家族みんなで食べて、主の救いを思い起し、祝うということ自体の中にありました。

なお、その前に、彼らが過越の祭りを祝ったのはエジプトを出て一年後の第一の月、シナイの荒野で律法を受け、幕屋が完成された直後でした。つまり、彼らはようやく四十年前の原点に立ち返ることができたのです。

なお、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられた」(Ⅰコリント5:7)とあるように、イエスは新しい「過越の小羊」となって、私たちをサタンと罪と死の奴隷状態から解放してくださいました。私たちはそれを「聖餐式」として祝っています。

それは、「聖晩餐」とも呼ばれ、イエスが十二弟子と共に最後の晩餐を祝った原点に立ち返る「記念」です。私たちは信仰において、まさに時空を超えて、約二千年前のエルサレムで結ばれた「新しい契約」に、今ここで結びつけられるのです。

「過越のいけにえ」に関しては、「無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない」(出エジ12:48)と記されていましたが、それに対し、使徒パウロは、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:15)と言いました。

私たちはキリストの十字架と復活によって、すでに「新しい者」とされています。それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(新しい創造です)。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)と記されているとおりです。

そして、彼らが「過越を行なった翌日、彼らはその地の産物・・を食べた・・翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナがなかった。それで彼らはその年のうちにカナンの地で収穫したものを食べた」(5:11,12)というのです。

多くの人々は、働かなくても食べられる状況に憧れるかもしれません。しかし、荒野で「天からのパン」によって養われるよりも、「乳と蜜の流れる地」(5:6)に入れられ、そこを耕し、種を蒔き、収穫することの方がはるかに豊かな生活でした。

事実、神のみわざは、ごく日常的な生活の中にこそ現されています。天からのパンは、荒野での苦しみとセットになっています。つまり、神の奇跡が必要にならない状況こそが、何よりの恵みなのです。

しかも、歴史上、二度と同じことは起きませんでした。人は、超自然的なことを体験し過ぎると、地に足をつけた歩みができなくなる傾向があるからです。仕事も、人間関係も煩わしいかもしれませんが、それがなくては退屈や孤独感に苛まれます。

信仰生活の喜びは、何よりも、歴史上の神のみわざを「記念」ることから生まれます。現代の私たちが、天からのパンを思い起こすことは、神が今も生きて働いておられ、私たちに仕事や家族や友人を与え、目に見えない形で私たちの生活を支えておられることを覚えることです。

天からパンが降ってきたように、神は私たちの日々の生活を支えていてくださいます。毎日決まった時間に太陽が昇り、適度の雨が降り、適度の気温や空気が保たれていることは、この広い宇宙では驚くべき奇跡なのですから。

3.主(ヤハウェ)の軍の将がもたらした勝利において私たちが記念すべきこと

ヨシュアの前に、「ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持って・・わたしは主(ヤハウェ)の軍の将として、今、来たのだ」と言われます(5:13,14)。

それは、主ご自身が戦うというしるしです。この方は、イスラエルの大将であるヨシュアに「あなたの足のはきものを脱げ」(5:15)と、しもべとして服従することを命じました。

エリコは地球上で最も古い都市とも言われます。この百年余りの間に徹底的な発掘調査がなされ、それによるとここには二重の城壁があり、内側の城壁は紀元前3200年~2200年頃、外側の城壁は紀元前2000年から1550年頃に建てられ、城壁の厚さは、幅の広い所では1.5mもあったと言われます。

そして外側の城壁で囲まれた町の広さは南北300m、東西200m程度であったようです。一日に七回、町の回りをまわるのは簡単なことですが、城壁を崩すことは至難のわざであったことが想像できます。

そこで、主(ヤハウェ)はヨシュアに、「見よ、わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」(6:2)と、すでに勝利が確定していることを伝えます。

その上で、主は彼に、「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らし・・・民は大声でときの声を上げなければならない。町の城壁が崩れ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない」(6:3-5)と命じられます。

ヨシュアはそれを祭司たちと民に取り次ぎ(6:6,7)、民はその通り実行した様子が、同じことばの繰り返しで強調されます(6:8-10)。そして、「祭司たちは主(ヤハウェ)の箱をかついだ。七人の祭司たちは…進みながら角笛を吹き鳴らした・・・六日、そのようにした」と描かれます(6:12-14)。

そして七日目には、主の命令によって、「同じしかたで町を七度回った・・・その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき」(6:15,16)という表現と共に、ヨシュアの命令が続けて詳しく記されます。

ここにおいては、主のみことばによる勝利が印象付けられています。私たちは、町の周りを七日間回ったという「方法」ではなく、「主のことばに従った」という「従順の姿勢」をこそ学ぶべきです。

しかも、七日間の間、町を回るとは、過越の祭りに種を入れないパンを食べる期間と同じです。彼らは、黙々と歩きながら、出エジプトの際の神のみわざを思い起こしました。記念することこそ、新しい勝利への最も大切な備えでした。

また主の契約の箱の前を、七人の祭司たちが角笛を吹き鳴らしつつ歩むとは、エリコを包囲するのは主ご自身であるというしるしです。エリコの人々は、イスラエルの戦士が整然と、沈黙のうちに歩むのを見、角笛の音だけが聞こえたとき、ますます心がしなえ、勇気を失って行ったことでしょう。

そこでヨシュアは民に向かって、「ときの声をあげなさい」と言った直後に、「この町と町の中のすべてのものを主(ヤハウェ)に聖絶しなさい。ただし、遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない」(6:17)と命じます。

そこでさらに「聖絶のものに手を出すな」と言いながら、それを破った時の警告も記され(6:18)、さらに「主のために聖別」(6:19)すべきものが指定されます。そしてそこで初めて、「民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした・・・城壁は崩れ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ攻め上って行き、その町を攻め取った」(6:20)と、肝心の戦いの様子は驚くほど簡潔に描写されます。

そして、「彼らは町にあるものは、男も女も・・・すべて剣の刃で聖絶した」と私たちにとって心痛むことが記されています。ただし、22-25節では「聖絶」の悲惨な状況より、イスラエルのスパイをかくまった「遊女ラハブ」とその家族の救いに多くの記述が費やされます。それは神への従順が報われることの「記念」となっています。

神はエリコの陥落というさばきと遊女の救いをセットに覚えさせたいと願っておられます。それは、大洪水のさばきとノアの救いがセットで記されているのと同じです。

攻め取られた町は、占領されることなく廃墟のままに捨て置かれ、イスラエルは別の場所に新しい町を築くことが命じられました。それは、彼らが偶像礼拝の文化を受け継ぐことなく、約束の地だけを受け継ぐためでした。

私たちの目の前にも、エリコの城壁があり、この世の政治権力、豊かさ、宗教的な慣習が動かしがたいほど強固に見えることがあります。しかし、妥協してはなりません。私たちは少数であっても、この世に神の民として、主のみわざを「記念する」新しい文化を築くように召されているのです。

聖書にある多くの不思議な神のみわざは、繰り返されることないユニークな出来事です。一方で、それを「思い起こす」ことは、繰り返し命じられます。

あなたにも、神のみわざに感動した体験があったことでしょうが、全く同じ出来事を期待すると、失望を味わい、神が見えなくなるでしょう。しかし、その感動をそのとき与えられたみことばとともに繰り返し「思い起こし」、今も生きて働かれる神に信頼し、主のみことばに従い、目の前に立ちはだかる城壁に向かうなら、さらに新しい神のみわざに感動できるでしょう。

私たちはキリストの十字架と復活によって、「新しく造られた者」とされていますが、それは現代の私たちの日常生活の中に生きて働くみことばを通して実感することができます。イスラエルの民が、3500年の歴史の中の一度限りの神のみわざを、毎年思い起こしたように、私たちも、みことばが私たちに生きて働いた記憶を、繰り返し思い起こす必要があります。

イスラエルの上に現された不思議なみわざはいつも驚くほど簡潔にしか記されていません。中心は、主のみことばが彼らを導いたという「記念」です。

17世紀のフランスのブレーズ・パスカルは、数学や物理学で繰り返し名が登場する天才ですが、彼は31歳の時に決定的な回心の体験をします。それが「覚書」として終生、胴衣の裏に縫い込まれていました。

そこには、具体的な日時と共に、「」というタイトルで、そのとき味わったみことばと罪の告白、感動が記されていました。その後、彼は39歳で天に召されるまで、様々な信仰の洞察を書きつづけ、それが「パンセ」として多くの人々に励ましを与え続けています。

その最も有名なことばは、「人間は考える葦である」ですが、その核心は、人間の想像力の豊かさではなく、人は自分の弱さを知っているということにおいてすべての被造物にまさるということでした。

自分が味わったみことばの感動を記憶しているでしょうか。なぜ、そのみことばに感動したかを思い巡らしているでしょうか。毎日の記録よりも、人生に何度もない感動を繰り返し思い起こすべきでしょう。

パスカル「覚え書き」

恩寵の年1654年 夜10時半頃より12時半まで

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(マタイ22:32)
哲学者および学者の神ではなく・・・
確信、確信、感情、歓喜、平和(平安)
イエス・キリストの神
「わたしの神またあなたがたの神」(ヨハネ20:17)
「あなたの神は私の神です」(ルツ1:16)
神以外の、世といっさいものの忘却
福音のうちに示された道によらなければ神は発見できない。
人のたましいの偉大さ
「正しい父よ。この世はあなたを知りません。
しかし、わたしはあなたを知っています」(ヨハネ17:25)
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙
私は神から離れていました。
「湧き水の泉であるわたしを捨てた」(エレミヤ2:13)
「わが神、わたしをお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)
願わくば、私が永遠に神から離れることがありませんように。
「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)
イエス・キリスト
イエス・キリスト
私は主から離れ、主を避け、捨て、十字架にかけました。
願わくば、私が決して主を離れることがありませんように。
福音のうちに示された道によらなければ、主を保つことはできない。
完全で、心地よい自己放棄
イエス・キリストおよび私の指導者への全き服従
地の上での一日の修業のゆえに、永遠の喜びがある
「私はあなたのことばを忘れません」(詩篇119:16)

(フランス語からの私訳)