私たちの生きている世界では、「これは絶対にあってはならない」と思える悲劇や不条理が必ず起きます。日本ではそこで、あらゆる問題の可能性を「想定」しながら、未然に備えることが求められがちですが、それでは「息が詰まる」ことになりかねないばかりか、「想定外」という事態への対処ができなくなります。
それよりは、「問題は必ず起きる・・不条理はあり続ける」ということを前提として、そこで「最悪の事態を避ける」ための歯止めを考える方が、「失敗者に優しい」対応ができます。
しかし、同時に、「これは絶対に赦してはならない」という厳しい基準がなければ、社会が成り立たないという面もあります。
「互いに愛し合う」ことを抽象的に理想化し、それで人や自分をさばいたり、反対に、人に振り回されたりということがないでしょうか。現代は特に、人と人との関係についてあまりにも性急な解決を望む傾向があります。
三千数百年余り前の原則は、その点で驚くほど日常的で具体的です。そこには、原則を徹底的に大切にしながら「地に足の着いた愛の交わり」を築くための現実的な知恵が記されています。
1. 「のがれの町」と「あわれんではならない」と言われる場合
19章1-13節では、「知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合」(19:4)の「のがれの町」のことが述べられます。それはたとえば、斧を振り上げて、その頭が柄から抜け、隣人に当たったような場合を指します。
現代の日本で高齢者ドライバーによる事故に似ているかもしれません。被害者の家族にとっては厳罰を望みたいところですが、「殺人の罪」とは明確に区別される必要があります。
民数記35:9-34では、ヨルダン川の東と西に三つずつの町を設定し、その運用の仕方が細かく記され、最後には「血は土地を汚す…土地を汚してはならない」と記されていました。
一方、ここでは、ヨルダン川の西側の「地域を三つに区分し」、「三つの町を取り分ける」こと、そして、「その者はこれらの町のひとつにのがれて生きることができる・・その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない」(19:5,6)という救いの面が強調されます。
しかも、8、9節では、主の道に従って、領土を広げることができたなら、「さらに三つの町を追加」するようにと命じられています。
それを一般原則化し、「あなたの神、主(ヤハウェ)が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血(原文:咎のない血)が流されることなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである」(19:10)とまとめられます。
私たちはしばしば、取り返しのつかない失敗をしたと落ち込みますが、神は「心の動機」を見ていてくださいます。悪意がないのに死刑にされてしまう可能性を、神は「咎のない血」と見てくださるというのです。
しかし、「もし、人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町のひとつに逃れるようなことがあれば・・・人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者(原文「血を贖う者」)の手に渡さなければならない・・彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪(原文:咎のない血)は、イスラエルから除き去りなさい」(19:13)と命じられます。
原文で、「血を贖う者」と記されるように、その目的は、血で汚された「土地を贖う」ことで、それは殺人者の血によるしかないからです(民35:33)。また同時に、「除き去る」のは、「罪」である前に「血」であると記されます。主の相続地をきよく保つことが主題なのです。
14節ではその関連で、「隣人との地境を移してはならない」と記されます。
また、15節では「すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたり・・または三人の証人の証言によって・・・立証されなければならない」と記されます。
その上で、「悪意のある証人が・・・偽りの証言をしていたのであれば・・彼がその同胞にたくらんでいたとおりに、彼になし・・」(19:16-19)と、たとえば偽証によって人を死刑にしようとたくらむ者は、その人自身が死刑にされると言われます。
私たちは「偽りの証言」をあまりにも軽く考える傾向がありますが、それによってもたらされる破壊的な影響力のほうを見るなら、直接的に人を殺すことと何ら差がないことがわかります。
嘘は恐ろしい力を持って、被害者ばかりか、加害者自身をも窒息させます。もちろんナイーブな正直さが人を傷つけるということもありますが、神は心に隠された悪意を厳しく問われるということを決して忘れてはなりません。
そこには「ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を・・再び行わないであろう」(19:20)と言われるような共同体的な配慮もあります。放置された悪は、伝染病のように広がるという面があるからです。
現実の世界では、「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」(19:21)という罪とさばきを同害にする原則が犯罪への最大の抑止力になります。ただし、これは、個人的な復讐を容認する教えではなく、裁判の基準です。
もちろん新約の時代、イエス・キリストの十字架はどんな罪をも赦すことができますが、それは罪を罪と宣言した上で赦すことであって、罪に妥協し、力を与えることではありません。
2. 平和のための戦いにおいて
20章にはこれから始まる聖なる戦いに関することが記されています。イスラエルの民は四十年間の荒野の生活を終え、これからモーセの後継者ヨシュアに導かれてカナンの原住民と戦う必要があります。しかし、彼らには「馬も戦車」もなく、敵の軍勢は彼らを上回っているのです。
それでモーセは、「あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主(ヤハウェ)があなたとともにおられる・・・あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主(ヤハウェ)である」(20:1、4)と改めて強調します。
その上で、軍役を猶予してもらえる三つの例外が記されます(20:5-7)。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者」は家を奉献できるまで、また「ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者」は最初の収穫ができるまで、そして、「婚約して、まだその女と結婚していない者」は、結婚生活を始めるまでの猶予期間が与えられました。
少なくとも昔の日本の徴兵でそんな配慮がなされたことは聞いたことがありません。「例外を許してはきりがない・・」「勝つためには一致団結しなければ・・」と言われたのではないでしょうか。
しかし、今から三千数百年前、戦争は日常茶飯事であり、負けた者は皆殺しか奴隷にされるのが常だった中で、このように個々人の事情に配慮する規程があったのは何とも驚きです。
イスラエルが戦う目的は、約束の地に定住し、畑を耕し、増え広がるためでしたから、この三点への人道的な配慮を欠いては、戦いを正当化できなくなります。
世には、「目的が正しければ、手段を問わない」という風潮がありますが、神は私たちの歩みの一歩一歩が正しくあることを願っておられます。
さらに、「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が・・くじけるといけないから」(20:8)と記されます。昔の日本なら、「根性を叩き直してやらねば・・」と言われそうですが、それは人の心の繊細さを理解しない発想です。
脅しによって人を動かすことは、戦いの理念を無に帰させます。私たちの真の敵は、「死の恐怖」で人を操作するサタンだからです(ヘブル2:15)。
たとえば、今、教会でも様々な伝道的な活動や集会が開かれますが、そのための熱い議論の傍らで、それについてゆけない人たちが教会を去るということがあり得ます。そんなときは、「弱気になっている者」をそっとして、彼らに居場所を与えたまま、同時に、心が燃えている人だけで働きを続けるという配慮も必要なのです。
その上で、10節から描かれる町の攻略戦では、主は約束の地の外側と内側での戦いの仕方を変えるように命じます。主は、決して無意味な血が流されることを望まれないからです。
約束の地の外側では、降伏勧告を受け入れた町の人々を奴隷として生かし、用いることも認めます。しかし、16節以降にあるように「主(ヤハウェ)が相続地として与えようとしておられる・・町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない・・・ヘテ人、エモリ人、カナン人・・は、必ず聖絶しなければならない」と厳しく命じられました。
そしてその理由が、「それは、彼らが、その神々に行っていたすべてのいみきらうべきことをあなたがたにするように教え、あなたがたが・・・主(ヤハウェ)に対して罪を犯すことのないため」(20:18)と記されます。主は約束の地に、神の国を建てるためにイスラエルを導きましたが、彼らはすぐに偶像礼拝に影響を受けて堕落する恐れがありました。
その地は、退廃した異教の文化から完全に遮断され、聖別された神の土地になる必要がありました。絶滅命令は約束の地を聖別するための命令だったのです。
そして、19,20節では、主は、戦争で町を包囲する時に、むやみに森林が伐採されることを避けるようにと「野の木」への配慮も命じました。
私たちも切羽詰って、後のことが考えられないことがありますが、死ぬか生きるかの中でさえ、敵への配慮や自然環境への配慮を忘れないようにと命じられるのです。
これらの戦争におけるルールは、あくまでも、主が与えてくださった約束の地を占領し、その地に「神の国」を建てるという、その時代だけに適用できる教えでした。
現代の私たちにとっては、全世界が神の神殿であり、私たちはそこで「神のかたち」として生きるように召されています。そして、そこでは「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)であるサタンとの戦いがあります。それは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と記されている通りです(エペソ6;12)。
サタンの勢力との取引や妥協はありえません。悪霊は、最初のアダムとエバの場合のように、神に背くことを無意識に望ませるように心の底にささやきかけます。神が与えてくださった生活の場から、サタンの惑わしにつながるものを聖絶する必要があります。
3. 共同体と家庭と隣人への責任
21章では、町の近くの野で殺された人を発見した場合の対処が記されています。彼らは自分たちの町の中で起こった事件については、うやむやにせずに、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない」(16:10)と命じられていました。そして、町の外の事件に関しても、加害者が不明であれば、「雌の子牛」を犠牲とし、「主(ヤハウェ)よ・・お赦しください。咎のない血を・・負わさせないでください」と祈るように命じられたのです(21:8私訳)。
いけにえは、血を流すというわけではないので、きよめの意味はありません。これは殺人者が発見されなかった、その代わりにその罪をこの子牛に負わせることです。それによって、「咎のない血を・・除き去る」(21:9私訳)ことになるというのです。
どちらにしても、殺人の血で汚された「土地を贖う」必要があり、それが本来の方法で不可能だったことに対し、町は犠牲を払いました。
私たちも、自分たちの属する共同体で起きたことに、「それは私の責任ではない!」と言い張ってはなりません。共同体から恵みを受けるものは、そこでの災いとそれに対する対処にも責任を担う覚悟が求められるのです。
21:10-14は理想と現実の折り合いという点で示唆に富みます。本来、異邦人を妻としてはならないはずなのに、約束の地の外の戦争捕虜の女性を「恋い慕い、妻にめとろうとする」場合に、一定の条件の下で認めました。
その際、「女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ…自分の父と母のため、一か月間泣き悲しまなければならない」(21:12,13)と命じられていました。これは、それまでの異邦人としての生き方から完全に決別するという意味もあったことでしょう。
そして、妻として受け入れた以上は、もう「奴隷として扱ってはならない」(21:14)と命じられていました。異邦人の女性の人権も尊重されたのです。
21:13-17では、「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており」という現実を前提にして、きらわれている妻の息子が長子である場合に、母によって差別することは許されないと敢えて記されます。
まるでヤコブとレアとラケルの関係を見るようですが、「ヤコブもそうしたのだから、自分がそうしても赦される」という言い訳は許されません。一夫多妻自体も神のみこころではありませんが、そうならざるを得ない現実がありました。その際、妻たちの間に不当な差別をしないように命じられました。
現在も、信者が未信者と結婚するとか、「できちゃった婚」など、本来のあるべき姿とは異なる様々な結婚があります。
しかし、神のみこころは、「すでにある関係」を否定することではなく、その中で、徹底的に結婚相手を尊重することです。決して、「これをなかったことにしよう」などという後戻りは許されません。
18-21節では、「かたくなで、逆らう子が・・・父母に懲らしめられても、父母に従わないときは・・・町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない」と、何とも恐ろしいことが記されます。
ただし、対象となっているのは、「放蕩して、大酒飲み」と呼ばれ得る年齢に達した「息子」です。そこには、「父母を敬え」との律法を、共同体全体で責任をもって果たさせようとの意図が見られます。
子どもは親の期待通りには育ちません。そこでは、親不孝な子どもの問題を、親の教育の失敗と非難する代わりに、それを共同体全体の問題と捉え、責任ある大人としてさばくことが命じられていました。
22,23節の記述ですが、当時の死刑には、見せしめという意味もあり、その死体を「木につるす」というようなことがありましたが、そのときには、「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日に埋葬しなければならない」と命じられていました。
そして、その理由が、「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである・・・主(ヤハウェ)が相続地として・・与えようとしておられる地を汚してはならない」(21:23)と記されます。これも地をきよく保つテーマです。
なお、新約で「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)と引用されます。神の御子が「のろわれた者」となることで、私たちを「のろい」から贖い出すということは、本来、レビ記などからは考えられないことです。これは先の「咎のない血」が流された責任を「雌の子牛」に負わせたことに似ています。
イザヤ53章11,12節では「主(ヤハウェ)のしもべ」が、イスラエルが負うべき咎を引き受けることで、彼らがバビロン捕囚という「律法ののろい」から贖い出されることが預言されていました。これは、イエスが創造主であり、イスラエルの王であるからこそ可能になったことです。
神のひとり子が「のろわれた者」となるというあり得ないことが起きた時、思いもつかない「救い」が実現することになったのです。
22:1-4では、「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない・・・すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたら・・知らぬふりをしてはならない」と記されます。
これとほとんど同じ趣旨で、出エジプト記23章5節では「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ずいっしょに起こしてやらなければならない」とも記されていました。
「自分の敵を愛する」(マタイ5:43)ことは、知らぬふりをしないことから始まるのです。
22章5節では男女のアイデンティティーを明確に保つことが命じらせ、それに反する行動に関して「主(ヤハウェ)は忌みきらわれる」と強く非難されますが、これはカナンの異教の神殿で行われていた性的な倒錯と結びついていたのだと思われます。
また、9-11節では「二種類の種」を混ぜること、「牛とろばとを組に」すること、「羊毛と亜麻糸とを混ぜ」ることが禁じられますが、これも神の創造の秩序を大切にするということで一貫しています。新しさの追求には、「もっと、もっと」という駆り立ての落とし穴があります。
22章13節以降に関しては、当時の女性は、父または夫の保護なしには生きてゆくことができなかったことを理解する必要があります。
結婚した後、夫が「この女に・・処女のしるしを見なかった」と「悪口を言いふらし」、それが嘘だった場合は、鞭打ちにされたうえ、多額の罰金が科せられました(22:19)。銀百シェケルとは羊百頭分の値段でした(イスカリオテのユダがイエスを売り渡した代金は30シェケル)。
一方、そのことが真実で、女が父の家にいる間にすでに男を知っていたなら、石で打ち殺されました(22:21)。また、「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は・・・二人とも死ななければならない」(22:22)と記されます。
そして、「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は」、男女とも石で打ち殺されました(22:23,24)。それは「女が町の中におりながら叫ばなかったから」ということで、ふたりの合意が明らかだからです。
そして、21-24節の三つの姦淫の罪の死刑のさばきの終わりには、「あなたがたのうちから悪を取り除きなさい」と繰り返されています。
25、26節では、婚約中の女が野にいて、助けを呼び求められなかった場合は、男だけを石で殺すように命じられました。
28,29節では、男が「まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕らえてこれといっしょに寝」た場合は、花嫁料に相当する銀50シェケルを父親に払って一生妻として面倒を見ることが命じられました。13-21節にあったように女にとって純潔を守ることは最も大切な掟であり、それを奪われた女性にとって、男が死刑になって罪を償ってもらうよりも、一生の保護を得られる方が大切だからです。
すべての背景には、男女の結婚関係を「聖別する」という基本原則があります。女性の純潔は将来の夫のために守るべき神秘であり、男性が他人の妻または婚約者を奪うことは殺人に等しい罪と見られました。
新約では、男性の性も結婚相手のために聖別すべきとされています(マタイ19:9、Ⅰコリント7:4)。
悪意のない過ちを赦すのは愛ですが、「教会はどんな悪人も受け入れるべきだ」と言いつつ、悪意に満ちた人や嘘つきを安易に受け入れることは自滅行為です。また夢を実現しようと熱くなりながら、目の前の人の必要が見えなくなるのは本末転倒です。
世界には理想と程遠い現実が満ちていますが、一足飛びに変えようとすると別の矛盾を引き起こします。譲ってはならない原則や善悪の基準を明確にしながら、目の前の問題に柔軟に対処する必要があります。神の愛は、一歩一歩を大切にすることです。