志を立てさせ、事を行なわせてくださる神

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2013年冬号より

私たちは、誰の目からも評価されるようなバランスの良い生き方よりも、「いのち」の輝きを求めたいものです。ある方が次ぎのように書いておられます。「いのちあるものは、何らかの意味で必ず過度です。燃えているものです。それは不純なものを焼き尽くし、透明であることを目指して燃焼し続けるものです。そうでなければ、いのちはいのちの名に価しません」

ピリピ人への手紙2章6-11節は「キリスト賛歌」と呼ばれます。まず、「キリストは神の御姿である方」(2:6) と表現されます。キリストは、父なる神と同じように何でもおできになり、この世のすべての束縛から自由な方です。そして、その方のなされたことが、厳密には、「神と等しくあることを奪い取ろうとは考えず、ご自分を無にして……」と原文では記されています。キリストは御父と同じ本質をお持ちになりながらも、立場においては「子」であられます。父なる神こそがすべての源、善悪の基準、すべての支配者であられ、御子はそれに「従う」ことが期待されました。

ですからここは、キリストは御父と同じ思いで世界をお造りになった御子であられるからこそ、神(御父)の権威を侵害しようなどとは思われることもなく、それと正反対の「仕える者」(原文では「奴隷」)の「姿」を取ることができたと記されていると解釈することができます。

多くの人々は、何かを掴み取ることで喜びが生まれると誤解していますが、そこには一時的な達成感と同時に、「もっと、もっと」という渇きが生まれます。ろうそくが自分の身を削りながら、周囲を照らすように、いのちの輝きは、自分を無にする自由から生まれます。

そればかりか、主は、肉体の自然の死ではなく、「死にまで、実に十字架の死に従う」ほどまでに「自分を卑しくされ」ました (2:8)。十字架刑は、極悪人のしるしです。人にとって栄誉とか誇りは命よりも大切なものですが、それらを捨てられたのが、「自分を卑しくする」ということでした。

その結果が、「それゆえ神は、この方を高く上げて……」(2:9) と記されますが、これはイエスが「ご自分を卑しくされた」ことに、神が応答してくださったという意味です。そして、「キリストが……ご自分を無にされた」ということに応えて、「神は……すべての名にまさる名を与えられた」と言われます。それは、自分を空っぽにする者を、神が最高の栄誉で満たしてくださるということです。私たちの目標は、人の上になることではなく、自分を無にして、神と人とに仕える生き方です。

その上でパウロは、「そういうわけですから……私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(2:12) と彼らを励まします。この救いとは、私たちが「キリストの栄光のからだと同じ姿にまで変えられること」(3:21) です。そのために、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」(2:13) と記されます。

私たち自身が「救いの達成に努める」ことこそ「みこころ」ですが、そのために神は、私たちのうちの「意思(志)」と「行い(働き)」の両方に「働いて」くださるというのです。つまり、信仰生活は、外からは人間のわざのように見えても、それを内側から動かしているのは神の御霊の働きです。

「あなたがたのうちに働いて」での「働く」とは、原文で、エネルギーの語源となるギリシャ語が使われています。神のみわざは、私たちのうちに志が立てられ、事が行われるという中に見られるのです。それはヨットと風の関係に似ています。操縦する者は、自分でヨットを動かす努力ではなく、帆の方向を調整し、風の力にヨットをまかせる訓練を積む必要があります。

人間的な肉の力で敬虔な生活を目指すと、パリサイ人のように自分を誇り他人を軽蔑することになります。しかし、自分の「意思」も「働き」も聖霊のみわざに開くとき、この「私」ではなく、「キリストのすばらしさが現わされる」(1:20第2版) ようになります。

そして、イエスご自身があなたのうちに生きておられるときに、必然的に、「曲がった邪悪な世代の中にあって……世の光として輝いている」(2:16) 状態にあるのです。これは、「輝きなさい!」という命令形ではなく、「約束」です。あなたの目には自分の闇しか見えないかもしれませんが、心の眼が自分ではなくイエスに向けられているとき、これは必然的に起こる聖霊のみわざです。

なお、その際、私たちはイエスにみことばを通してしか出会うことができませんから、常に、「いのちのみことばをしっかり握っている」ということが求められています。自分で自分の心にブレーキをかけるのではありません。キリストは、現在、ご自身が記した聖書のみことばを通して私たちの心のうちに働きかけるのです。積極的にみことばを心に蓄え、みことばに思いを巡らし、みことばがあなたのうちに根をはって、あなたの思いを動かすように心を明け渡して見ましょう。神の働きが、あなたのうちに全うされるのです。それはあなたの力によるのではなく、神のエネルギーです。それに身をまかせて、失敗や非難を恐れず、大胆に世に出て行きたいものです。

生きる力、意欲を削ぎ取るようなことばが、しばしば、心の内側に響いてきますが、そんなマイナスのことばに身をまかせてはなりません。問われているのは、掴み取る生き方か、自分を無にする生き方かという方向性の問題です。「いのちの喜び」を削ぎ取ることば、気力を失わせることばではなく、「いのちのことば」「いのちの喜びを生み出すことば」に耳を傾けましょう。