ホセア6章4節〜8章14節「神が喜ぶ誠実さとは?」

2012年12月1日

多くの日本人は熱すぎる信仰に恐怖のようなものを感じます。それは自分の確信に熱くなりすぎて、他の人の意見が聞けなくなり、独善的になるからです。そして、その恐れは根拠のないことではありません。

かつてのユダヤ人は神への熱心さにゆえにイエスを十字架にかけ、またパウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い合いました。

また、現代の信仰者の中にも、ときに神への熱心さのゆえに戦争やテロを正当化する人や、また、神への熱心さのゆえに教会を分裂させる人もいます。では、信仰は、あまり熱くなりすぎないことが良いことなのでしょうか・・・。

聖書が勧める信仰とは、何よりも「聴く」ことに始まります。「聴きなさい!」こそ、神の命令の核心です。旧約聖書で「聞き従う」と訳されている言葉は、基本的に、「聴く」というひとつの動詞からなっています。

「従う」という行動は、じっくり聞いたことの必然として生まれるはずのことで、聴くことこそ、信仰の核心なのです。聴くことを疎かにする信仰こそ、危ない信仰になるのです。神が喜ばれる誠実さとは、何よりも、真剣に耳を傾けることにあります。

1.「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない」

ホセア6章6節はイエスとパリサイ人たちとの聖書理解の違いを知るための鍵となる聖句です。つまり、私たちが律法をイエスによってか、パリサイ人の理解によって解釈するかという決定的な分かれ目がここに記されているのです。

イエスが取税人や罪人たちとともに食事をしているのを見たパリサイ人は、それをとんでもないスキャンダルかのように批判しましたが、イエスはそれに対しこのホセアのことばを引用しつつ、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んできなさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9:12,13)と言われました。

不思議にもイエスは聖書の専門家に向かってホセア書6章6節の意味を再度学び直すようにと言われたのです。なお、ホセア書では神への「誠実(ヘセド)」を意味することばが、ここでは罪人に対する「あわれみ」として表現されています。

イエスにとって神への誠実と人へのあわれみは表裏一体のことでしたが、パリサイ人は神への誠実さを、罪人をさばくこととして表現しました。

現代的には、たとえば同性愛や妊娠中絶は明らかに聖書に反しますが、それを行なっている者を激しく非難することで神への熱心を現すことは、パリサイ主義になるというようなものです。

ホセア6章4~7節はひとつのまとまりとして理解されるべきです。

そこで、主は、「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った」と言っておられます。

律法の中心には神へのいけにえのささげ方を教えるという面がありますが、イスラエルは神への愛の表現であるはずの行いによって神との契約を破ったというのです。これは、たとえば、多額の献金をささげる人は人間的に見ると神に誰よりも喜ばれるはずなのですが、かえって神の怒りを買ってしまうことがあるという皮肉です。

主は、6章4節で「わたしはあなたに何をしようか」と、北王国の中心部族であるエフライムと南王国のユダに向けて語りますが、これは、彼らにどのようなさばきを下そうかという意味です。

その理由が、「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ」と描かれます。この「誠実」とは、ヘブル語のヘセドが用いられており、神がご自身の契約を誠実に守り通されるという神の愛を描くために用いられることばです。私たちは結婚の時に互いへの永遠の愛を誓いますが、結婚生活が続く中で、「あなたは私を利用することばかり考えているわね。あなたの愛なんて、口先だけじゃない!」と非難し合うようなものです。

そして、人は後ろめたさを感じている時に限って、愛情表現が豊かになることもあります。イスラエルの民はこのとき、カナン人が親しんでいたバアルへの礼拝とイスラエルの神ヤハウェに対する礼拝を混合していました。夫婦の愛が浮気によって壊されるように、神はイスラエルの民がバアルを慕いながら、同時にご自身へのいけにえをささげている姿に怒りを覚えていました。

そして、神はここで、「わたしは預言者たちによって・・わたしの口のことばで彼らを殺す」と言っておられますが、これはモーセやサムエルのことばを思い起こさせるものです。

モーセは申命記28章で、神の御教えを軽蔑する者に下る「のろい」を繰り返し記しており、その49節には、「主は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる」と警告されています。それはアッシリヤ帝国による北イスラエル王国の滅亡、バビロン帝国によるユダ王国の滅亡という形で実現しました。神はご自分のことばを偽ることはないからです。

また、預言者サムエルはサウル王が、主の命令に反してアマレクを聖絶する代わりに主へのいけにえを取っておいたと弁明した時、「主(ヤハウェ)は主(ヤハウェ)の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」と言いつつ、サウルを王座から退けると宣言しました(Ⅰサムエル15:22)。

このことばがホセア書の背後にあります。そこでサウルは、自分は神に最上のいけにえをささげるために、敢えて神の教えに背いたと言いました。

これは、家庭を顧みずに仕事にのめり込んでいる夫が、妻に向かって、「俺は家族を養うために身を粉にして働いている・・」と言うことに似ています。

多くの場合、妻や子供が何よりも求めているのは、物質的な豊かさ以前に、家族と語り合うことですが、多くの夫たちは、家族のことばに耳を傾けることこそが最大の愛の行為であるということを忘れています。

そのような文脈の中で、主は、「わたしは誠実(ヘセド)を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」と言われました。ここでは、「誠実」ということばと「神を知ること」ということばに基本的に同じ意味が込められています。

いけにえは人間が神に対して行える最高の行為と思われました。そこにはささげる者の大きな犠牲が伴うからです。しかし、神はそのような愛の行為よりも、神の愛を知り、神の愛に応答することを求めておられるというのです。

なお、イエスは七十人の弟子を宣教に派遣して、彼らが悪霊を従えることができたことを喜んで帰って来たとき、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われましたが(ルカ10:20)、この箇所はEugene Peterson訳では、「Not what you do for God but what God does for you-that’s the agenda for rejoicing(あなたが神のためにする何かよりも、神があなたのためにしてくださる何か、それこそ喜ぶべきことです)と訳されています。

また、イエスはマルタがイエスをもてなすことに忙しくして、苛立ちのあまり、イエスの足元でみことばに耳を傾けていたマリヤのことに関して、主賓であるイエスに、マリヤに働くように注意してほしいなどと不躾な願いを言ったとき、イエスはマルタに向かって、「マルタ、マルタ。あなたはいろんなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、ひとつだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです、彼女からそれを取り上げてはいけません」と言われました(ルカ10:41,42)。

そして、マリヤはイエスのみことばにじっと耳を傾けていたからこそ、イエスが十字架にかけられる前に、ナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でイエスの足をぬぐうなどと、奇想天外な行為によってイエスを慰めることができたのです(ヨハネ12:1-8)。

イエスはまた、パリサイ人たちが、イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べているのを非難した時、ダビデの例を出しながら律法の規定の柔軟な解釈の大切さを訴えましたが、そのときもこのホセア書を引用しながら、「『わたしはあわれみは好むが、いけには好まない』ということがどういう意味か知っていたら、あなたがたは罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」と言われました(マタイ12:7)。ホセア書はそれほど重要なのです。

2.「イスラエルの高慢はその顔に現れ・・・主(ヤハウェ)に立ち返らず」

7章8節からはエフライム部族の滅亡へのプロセスが描かれます。まず、「エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子となる」とは、彼らがカナンの偶像礼拝の文化に影響されて、神の期待を裏切る役に立たない民となったことを描いたものです。

そして彼らが高慢の余り、自分たちの危険に気づかず、神を求めなくなっている様子が、「他国人が彼の力を食い尽くすが、彼はそれに気づかない。しらがが生えても、彼はそれに気づかない。イスラエルの高慢はその顔に現れ、彼らは、彼らの神、主(ヤハウェ)に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない」(9,10)と描かれます。

私たちの人生は、いつも危険と隣り合わせですが、高慢な者は自分の力に過信し、神を求めようとはしません。しかし、危険が迫ると「エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようになった。彼らはエジプトを呼び立て、アッシリヤへ行く」(11節)とあるように、エジプトにすがったり、アッシリヤに助けを求めたりと、右往左往してしまいます。

そのような中で、神は彼らの邪魔をしたり、懲らしめたりしながら(12節)、彼らが自分たちの「高慢」に気づき、ご自身に立ち返り、ご自身を慕い求めるようになることを待っておられます

神は、「彼らはわたしから逃げ去った・・わたしにそむいた」と非難しながら(7:13、ご自身の葛藤を、「わたしは彼らを贖おうとするが彼らはわたしにまやかしを言う」と表現されます。そして、彼らの不信仰を「彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく。彼らは、穀物と新しいぶどう酒のためには集まって来るが、わたしからは離れ去る」(7:14)と描きます。

神は彼らが自分たちの愚かさに気づくのを待っておられますが、彼らは子供のように自分の不遇を泣きわめくばかりで、食べ物とぶどう酒を求めることしか頭にないというのです。

そして、神は彼らの恩知らずな姿勢を、「わたしが訓戒し、わたしが彼らの腕を強くしたのに、彼らはわたしに対して悪事をたくらむ」と描きながら(7:15)、「彼らはむなしいものに立ち返る」(7:16)と非難します。「立ち返る」というのは本来回心を意味する言葉ですが、彼らは昔の空しい生き方の方に立ち返ってしまうというのです。

それによって「彼らはたるんだ弓」のように役に立たない者になってしまいます。そしてその結末が、「彼らの首長たちは、神をののしったために、剣に倒れる。これはエジプトの国であざけりとなる」と記されます。

ここでエジプトの国とは、すべての人間の力を誇るこの世の国のシンボル的な表現です。神をののしる者は、結果的に、人間の間でもはずかしめを受けることになります。

3.「罪のため祭壇が、罪を犯すための祭壇となった」

8章ではアッシリヤ帝国が北王国イスラエルとその神殿を攻める様子が描かれます。その理由を主は、「彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ」と言われます。皮肉にも彼らは、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている」と叫びますが(8:3)、彼らはその一方で「イスラエルは善を拒んだ」とあるように、神の明確なみこころを拒絶しました。彼らは「彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った」というのです。

それは神が一番嫌われることでした。その皮肉が「彼らが断たれるために」と記されながら、それに対する神の反応が、「サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす」と描かれます(8:5)。

そして、神の嘆きが、「彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか」(8:7)と記されながら、彼らの偶像礼拝の空しさが、「彼らはイスラエルの出。それは職人が造ったもの。それは神ではない。サマリヤの子牛は粉々に砕かれる。彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす」(8:6、7)と描かれます。

彼らは他の神々を拝んだというよりは、まず神の御姿を子牛として表し、それを拝んだのです。人間こそ神の御姿の現れであり、彼らは神が望まれる国を建てるべきだったのに、彼らは自分たちの肉的な望みを神として拝んだのです。

そして、イスラエルの自滅に向かう様子が、「イスラエルはのみこまれた。今、彼らは諸国の民の間にあって、だれにも喜ばれない器のようだ」(8:8)と記されます。そして、「彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリヤへ上って行った。エフライムは愛の贈り物をした」(8:9)とは、彼らが孤立する中で、アッシリヤに貢物をしながら生き延びようとする姿を描いたものです。

イスラエルは神との愛の交わりの中に生きるべきはずだったのに、彼らは神を忘れて、アッシリヤの愛を獲得しようと必死になっていました。

そして続く10節は新共同訳では、「彼らは諸国に貢いでいる。今や、わたしは諸国を集める。諸侯を従える王への貢物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」と記されますが、この方が一般的な訳です。

これはアッシリヤ帝国が神の御手の中でイスラエルが貢物をしていた周辺諸国をも支配するようになって、アッシリヤがますます貢物の取り立てを厳しくするという皮肉を描いたものです。

イスラエル王国はアッシリヤのご機嫌を取る一方で、自分たちの周辺諸国にも貢物を贈って、アッシリヤに対抗できる力の均衡を保とうとしますが、そのような目論見はことごとく外れてしまい、かえってアッシリヤの怒りを買って、徹底的に苦しめられるようになってしまいます

8章11節には「エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった」と記されますが、これは罪の赦しを獲得するために多くの祭壇を築くことが、神のみこころに反する礼拝という「罪を犯すための祭壇」となったという皮肉です。

これは、神が何を望んでおられるかをまったく知ろうとせずに、神の愛を獲得するために必死に尽くしながら、かえって神の怒りを買ってしまうという皮肉です。

これはイエスの時代のユダヤ人の問題でもありました。彼らは神への熱心さのゆえに、神が送られた救い主を十字架にかけて殺してしまいました。

パウロは彼らの問題を、「私は、彼ら(ユダヤ人)が神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」(ローマ10:2,3)と描いています。

ここで「神の義」とは、「神の正義」、「神の契約に対する真実さ」とも読み替えることができます。神はアブラハムに対する契約のゆえに彼らを救おうとしておられるのに、彼らはその救いの御手を払いのけ、自分たちの方法に固執して、滅びに向かいました

これは、たとえば、あなたの身体が癌細胞に犯され、その癌細胞が急速な増殖を始めようとしてるときに、医者が勧める外科手術を断固として断って、食事療法で癌がなくなると期待するようなものです。

そして、彼らが神の愛の教えを退ける様子が、「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす」(8:12)と記されます。そして、彼らの愚かな礼拝の姿が、「彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主(ヤハウェ)はこれを喜ばない」と描かれ、その結果が、「今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。彼らはエジプトに帰るであろう」と記されます(8:13)。

彼らが神の愛を勝ち取ろうとすればするほど、彼らは神の怒りを買ってしまっているというのです。その結果が、「彼らはエジプトに帰る」というのは、彼らがエジプトから贖い出された前の奴隷の状態に戻るという意味です。

そして、14節ではこれらすべてをまとめるようにして、「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす」と記されます。

彼らは自分勝手な礼拝に熱心になることによって、神の怒りをますます買ってしまい、自分たちの国を失ってしまったのです。

神は、「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」と言われました。そして、イエスは、当時のパリサイ人にこのことばを学び直すようにと強く勧められました。信仰は夫婦の愛の交わりに似ています。豊かな家庭生活の鍵とは、何よりも、互いの心の声に耳を傾けることにあります。

誠実さとは、相手を知ることに他なりません。イスラエルの民は、多額の財産を使って神の怒りを買うような礼拝を続けました。それによって彼らは国を滅亡させました。神への熱心さによって神を怒らせてしまうというのは何という皮肉でしょう。それは聴くことを軽んじる信仰の悲劇です。「信仰は聴くことから始まります」(ローマ10:17)。

多くの日本の福音派の教会がバブル期に至るまで順調に教勢を伸ばしてきましたが、その傍らで、教会奉仕が忙しすぎるようになり、神のみことばを味わうことが疎かになって来たのかもしれません。その反省が求められています。