詩篇1〜2篇「主の教えを喜ぶ者の幸い」

2019年1月13日 

サラリーマン時代、「主の教えを喜ぶ人は……何をしても栄える」というみことばが、仕事の成功と結びついて嬉しく思えました。しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、その詩篇1篇があまりにも楽天的に見えてきました。主の教えを喜びながらも次から次と厳しい試練に会う人がいるからです。

ところが、詩篇2篇とセットで読むようになったとき、その意味が納得できました。ここに聖書の初めと終わりの要約があります。ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。

1.「主(ヤハウェ)は正しい者の道を知っておられる」

この詩篇は突然、「幸いな人よ!」ということばから始まり、その生き方が2節まで簡潔に描かれます。人間とは人の間で生きる存在ですから、誰と交わるかは、その人格の形成に決定的な影響を与えます。

ですから、まず三つの否定形で、「幸いな人」は、神に敵対する者との交わりと一線を画しているということが、「悪しき者の勧め(はかりごと)に歩まず 罪人の道に立たず おごる者の座につかず」と描かれます。

それとの対比で、「むしろ 主(ヤハウェ)の教え(トーラー)を喜びとし 昼も夜もその教え(トーラー)を思い巡らす(口ずさむ)」と、何よりも主の教えを喜びとする交わりの中に生きることが幸いであると言われます。

教え」とは原文では「トーラー」で、狭い意味ではモーセ五書を指しますが、これが新約では「律法」(ノモス)と訳され、さらに英語でLaw、日本語で「律法」と訳され、神の愛に満ちた御教えが、神の法廷での「さばきの基準」かのように響くようになりました。そのため、「聖書を読むと、かえって息苦しくなる……」という人さえいます。

しかし、「主の教え(トーラー)」は何よりも喜びの対象であり、愛する人からの手紙のように、いつでもどこでも「思い巡らす」ことで、幸せになることができるものです。私たちは(ヤハウェ)に属する民主の牧場で生かされている「」です。主の御教えを「喜び」「思い巡らす」ことこそが、「幸い」な生き方の土台となるのです。

なお(ヤハウェ)はモーセの後継者ヨシュアに、「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ(思い巡らせ)。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである」(ヨシュア1:8)と語られました。以前「律法」と訳されたことばが新改訳2017では「みおしえ」となっています。

さらにそこでの「繁栄」に用いられたことばで、ここでは「その人は……行うすべてが繁栄をもたらす」(1:3)と断言され、それが「流れのほとりに植えられた木」にたとえられます。ただし、「時が来ると実を結び」とあるように繁栄の実はすぐには見えません。しかしそれでも「その葉は」、日照りによっても「枯れ」る心配がないので、期待が裏切られることはありません。

後の預言者エレミヤは、「(ヤハウェ)に信頼する者に祝福があるように。その人は主(ヤハウェ)を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない」(エレミヤ17:7,8)と表現しています。

しかし、彼はその直後に、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。わたし、主(ヤハウェ)が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実に従って報い」(17:9,10)とも記しています。

つまり、「人の心」の内側を見て行くなら、自分で自分を変えようとしても変えられない絶望的な状態にあり、そのままでは神の最終的なさばきに耐えられないというのです。

そのことが、ここでは、「悪しき者はそうではない……」(4節)と表現されます。「悪しき者」とは「創造主を恐れず、礼拝しない者」という意味で、反対に、正しい者とは、この世で尊敬されている人というより、「創造主を恐れる者」、また自分の罪深さを自覚し、主にすがるすべてのキリスト者を指しています。

確かにこの世の中には、本当に人間として尊敬できる偶像礼拝者が数多くいますが、人間の誠実さには限界があります。ですから昨年の大河ドラマの主人公、西郷隆盛などの場合でも現実には両極端の評価が見られます。そのことがここでは、「風がとばすもみがらのように、はかないものと記されます。

それに対し、「主の教えを喜びとし、思い巡らす」者は、心の内側から変えられ、さばきの日にその違いは歴然として表されます。そのことが、「それゆえ 悪しき者は さばきの前に 立ちおおせない。罪人も正しい者の集いには」(5節)と記されます。

どれほど社会的な成功者であっても、親不孝な者の心は荒んでいます。同じように、自分の創造主を忘れた生き方には、真の意味での善悪の基準がなく、どこまで行っても安心感がありません。そのことが最終的な神の「さばき」の時には明らかにされます。

そして神を礼拝する「正しい者」は神の御前に喜んで集うことができますが、神を知ろうとしない「罪人」がそこに「立ちおおせない」ことは明らかです。

ところで、詩篇1篇は「悪しき者の道は滅び去る」で終わりますが、この形は詩篇の中でも異例です。著者が強調したいのは何よりも、「(ヤハウェ)は、正しい者の道を知っておられる」という点で、それこそが詩篇2篇に展開されていると考えられます。

この世の人生のむなしさは何より、「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある」(伝道者7:15)という不条理にあります。そこにサタンがつけこみ、不敬虔な生き方を刺激します。しかし、真の繁栄は、天地万物の創造主、すべての豊かさの源である方に結びついた生き方から生まれます。

明治から昭和にかけての大伝道者である木村清松がナイアガラの滝を見ていると、あるアメリカ人が「このような偉大な滝があなたの国にあるか」と聞いたので、彼はすかさず、「これは私の父のものです」と答えたとのことです。私たちの幸いは、そのような創造主を「私の父」と呼ぶことができること自体の中にあります。

木村清松

世の人々はときに、「俺は神に頼らなければならないほど、落ちぶれてはいない!」などと言います。しかし、それこそ、私たちのためにご自身の御子を、世にお送りくださった神を悲しませる生き方です。

この世界の成り立ちすべてが、神のあわれみなしにはあり得ませんでした。私たちは知らないうちに、神の助けがなくても生きられるような強い人になろうとしてはいないでしょうか。

2.「わたしは、わたしの王を……立てた」

2篇の初めの、「なぜ、国々は騒ぎ立ち……主(ヤハウェ)と 油注がれた者(メシア)に逆らうのか」という一連の文章は、使徒4章25節では、ダビデが千年後の救い主とその教会に対する迫害を預言的に記したものと解釈されています。

ヘンデル作のオラトリオ「メサイア」の第二部では、ハレルヤコーラスに至るプロセスで詩篇2篇からのみことばが四曲も歌われます。それはこの世の不条理に直面する者への慰めです。

イエスの復活によってサタンの敗北は決まったのですが、それによって戦いが止むどころか、かえって激しくなっている面があります。それはたとえば、第二次大戦でナチス・ドイツの敗北を決定的にしたのは1944年6月のノルマンディー上陸作戦の成功でしたが、ドイツの降伏は1945年の5月であり、その間の戦争はそれ以前よりはるかに悲惨になったのと同じです。

太平洋戦争の場合も開戦半年後の1942年6月のミッドウエー海戦で日本の敗北は決定的になりましたが、それを理解したのはごく一部で、その後の3年間、敗戦の兆候が強くなるほど戦いは激しくなり、硫黄島、沖縄、広島、長崎の悲劇につながります。

つまり、現在、サタンの攻撃が激しくなり、暗闇が増し加わっているように見えるのは、勝敗が決定的となったしるしなのです。

この世では、「神の民」は少数派に過ぎず、神に逆らう者たちの力の方が圧倒的に強く感じられます。そのような現実の中で、「人々は むなしく思い巡らす」(2:1)というのです。このことばは以前は「つぶやく」と訳され、今回は「企む」と訳されていますが、原文では、「昼も夜もその教えを思い巡らす(口ずさむ)」(1:2)というときのことばと同じです。

私たちは聖書にある神の救いのストーリーを思い巡らす代わりに、この世の不条理ばかりに目を留めて、「神がおられるなら、なぜ……」とつぶやいてしまうことがあります。

しかし、ナチス・ドイツのアウシュビッツの苦難を通り抜けた人は、「この世にこれほどの不条理があるのに、どうして創造主を信じないで生きていることができるのだろうか……」と、かえって主への信仰を深めたとのことです。聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」は、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあります。

しかし、私たちが「思い巡らす」べきこととしての「なぜ?」とは、1,2節にあるように、この世の「国々」や「支配者」たちが、「なぜ」これほどノー天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのかということです。実はそれこそが私たちが問うべき「なぜ?」でしょう。

聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神のご計画であったと知ることができ、また私たちの人生も、この世にあっては様々な試練に満ちていると知ることができます。神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは隠された霊的な現実を見ることができないからこそ神に反抗できるのです。

2、3節では「地の王たち……支配者たち」が「結束して」、「(ヤハウェ)と油注がれた者(メシア)に逆らい」、「さあ かせを砕き 綱を、解き捨てよう!」と言い合うと記されます。これは現代的には、私たちの身近な人々が、「神の国(支配)」の民として生きることを、単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことを指します。しかし、彼らは自由なのではなく、自分の欲望の奴隷になっているだけです。

4-6節では、「天に座す方はそれを笑う 主(アドナイ)は彼らをあざけり 燃える怒りで おののかせ 怒りをもって語る」と記され、語られた内容が、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」と描かれます。

天に座す方」のことを、敢えて「(アドナイ)」と呼び変えられるのは、天の王座に就いておられる方こそがこの世界の真の「主人である」ということを明らかにするためです。しかも、この目に見えない神が、その現実を忘れたこの世の権力者を「あざけり」、「燃える怒り」を現して「おののかせ」ます。

さらに、目に見える地上の王をエルサレムに立てることで、ご自身の支配権をこの地に確立するというのです。そして、その「」こそ、「ダビデの子」であるイエス・キリストなのです。これこそ目に見える「神の国」の始まりです。私たちには不条理としか思えないことも、実は、神のご支配の中にあるのです

私たちはこの地の真の支配者がどなたなのかを忘れてはなりません。そしてイエスこそ、神が立てた地上の「」なのです。

なおこの世の「支配者」ではなく、社会的弱者が陥る過ちもあります。それは、「神の国(支配)」の民として生きることを、悪しき権力者に反抗することかのように誤解することです。

しかし、人はみな視野が狭く、自己中心的ですから、互いの利害が対立し、ある人の成功が、ある人の失敗につながるという現実が常にあります。ですから、その利害の調整をする権威がなければ、世界は最低限の正義さえ期待できない無政府状態に陥ります。ですから、使徒パウロも、あの悪名高いローマ皇帝ネロの時代に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」(ローマ13:1)と言っています。

つまり、この世の権威を尊重することで、この地の平和が保たれるという現実を忘れてはなりません。そこに目に見えない神の支配が現わされています。イエスを真の地上の王として認めることと、この世の権力者による支配は、矛盾するものではなく、両立することなのです。

ただし主は、ご自身に逆らう権力者を、いつでも退けることができます。ですから、私たちはこの地の真の「(アドナイ)」に信頼して、権力闘争をする代わりに、主から与えられた目の前の責任を黙々と果たすのです。

しかも、この詩の著者はダビデ自身であると先の使徒の働き4章25節で記されています。つまり、直接的にはダビデの戴冠の時のことばとして、主(ヤハウェ)が、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」(2:6)と言っておられるとも考えることができます。

ダビデはサウルに命を狙われ、逃亡していたことを思い起こしながら、このみことばを喜んでいたと考えるなら、彼の感動をここに読み取ることができます。

3.「御子に口づけせよ」

そして詩篇2篇7節では、主(ヤハウェ)がこの世界に対し「制定(布告)」(新改訳では「定め」)を発せられたと記されます。それはダビデ王国の支配が全世界に広がることを意味するもので、「あなたは わたしの子 わたしは きょう あなたを生んだ わたしに求めよ 国々を あなたに受け継がせ、地の果てまで あなたのものとする」(2:7,8)ということばでした。

ただ現実には、ダビデの支配地は約束の地カナンに限られていましたから、その完全な成就は、「ダビデの子」としての「救い主」(キリスト)の出現を待つ必要がありました。

イエスのバプテスマの時、天からの声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と響いたのは、この預言の成就でもありました。イエスは公生涯の初めから、ご自分こそこの世界の真の「」であることを示しておられました。

またイエスの十字架刑が決定的になったのは、大祭司の質問に対して、ご自分が神の子キリストであることを認めたばかりか、ダニエル7章13節を引用しつつ、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(マタイ26:64)と言いながら、ご自分こそが全世界を治める王であると宣言されたからです。

それが当時の人々が思ったような大ぼらではなく、真実であるということが、この「(ヤハウェ)の布告」で宣言されているのです。

なお、「わたしは、きょう、あなたを生んだ」とは、使徒13章33節では「神はイエスをよみがえらせた」ことを指すと記されます。そして私たちも、イエスに結びついていることで、「あなたは、わたしの愛する子と呼ばれ、「新しく生まれているのです。

さらに、これはイエスが父なる神の右の座に着かれたこと、また私たちの大祭司となっておられることを指すとも言われます(ヘブル1:3,5:5)。

私たちはこの地では取るに足りない者と見られがちですが、イエスは私たちをこの世の罪や権力から守り通すことがおできになるのです。

また、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち 焼き物のように粉々にする」(9節)は、黙示録で三回にも渡って、「この方は鉄の杖で諸国の民を牧する」という表現で引用されます(2:27,12:5,19:15)。

救い主は、二千年前はひ弱な赤ちゃんとしてこの地に来られ、神の優しさを示されましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるからです。私たちはキリストの初臨(クリスマス)と再臨をセットで理解する必要があります。

1-9節には今、私たちの救い主イエスが、既に王の王、主の主としてこの地を治めておられるという霊的な現実が記されています。ですから、ヘンデルのハレルヤコーラスは、この詩篇2篇から導かれる必然的な帰結です。

私たちの群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはこれを歌って欲しいと切に願われ、目に見える現実を超えたキリストのご支配が高らかに歌われました。

その歌詞はまず黙示19:6から Hallelujah! For the Lord God omnipotent reigneth (ハレルヤ!神である主、全能者は治めておられる)、黙示11:5から The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of His Christ and He shall reign for ever and ever(この世の王国は私たちの主とそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される19:16から King of Kings, and Lord of Lords(王たちの王、主たちの主)と歌われます。

神のご支配は、御子イエスが王として世界を治めるところに現されるのです。この地上を支配しておられるのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださった主イエスご自身なのです。

私たちの救い主が、今、「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるというのは何という慰めでしょう!なお、1743年にヘンデルの指揮による演奏を聞いていた英国王ジョージⅡ世は、この部分に来たとき、突然起立しました。それは、「王の王、主の主」であるキリストへの敬意の表現でした。

それにならってすべての聴衆が起立し、それ以後の演奏会でも、聴衆がこの部分で起立するようになったと言われます。

ここでは続いて、「それゆえ今 王たちよ 悟れ 地の支配者は 教えを受けよ 恐れつつ 主(ヤハウェ)に仕え おののきつつ喜べ」(10,11節)と記されますが、このヘンデルの演奏を通して主のみことばから教えられた大英帝国繁栄の基礎を導いた先の王がこのハレルヤコーラスで起立したのも、このみことばに従ったこととも言えましょう。

黙示録では、キリストが弱さの象徴としての「小羊」と呼ばれながら、同時に「右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は照り輝く太陽のようであった」(1:16)と描かれます。

それは、キリストがこの世の悪をさばき、不条理をすべて正してくださる方だからです。キリストの支配は、生まれながらの人間には分かりません。しかし、神は確かにキリストを王として立ててくださったのです。

御子に口づけせよ」(12節)とは、キリストに臣下としての礼をとることを意味します。そうでないと私たちは悪しき者どもとともに神の怒りを受け、滅ぼされざるを得ません。

そして、最後に、「幸いなことよ」と繰り返され、御子に身を避ける者の幸いが強調されます。イエスは、あなたの罪を担って十字架にかかってくださったからです。私たちキリストにつながる者は、「キリストとともに……王となり」(黙示20:4)、また「永遠に王となり」(同22:5)、そして「世界をさばく」(Ⅰコリント6:2)者となると保証されています。

ですから、私たちはあらゆる「苦しみ、迫害、飢え、危険」に囲まれながらも、すでに圧倒的な勝利者(ローマ8:37)とされているのです。

私たちの人生がどんなに厚い雲に覆われているように思えても、その上には太陽が輝いています。キリストに従う者は、この世界を平面的にではなく立体的に見ることができます。人は、自分の過去の苦しみをまったく違った観点から見られることがあります。

それと同じように、私たちは、キリストの復活と再臨という霊的な枠からこの世界の現実を見るときに、「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」(Ⅰコリント15:58)と言うことができます。それは私たちが、すでにキリストの愛のうちに包まれて、生かされているからです。

その意味で、「主の教えを喜びとする」者は確かに、「行なうすべてが繁栄をもたらす」と断言することができ、「主の教えを喜びとし……思い巡らす」者は、永遠に「幸いな人」と呼ぶことができるのです。

詩篇1篇、2篇(2019年1月髙橋訳改定)

幸いな人よ!  (1:1)
 悪しき者の勧めを 歩まず
罪人の道に 立たず
 おごる者の座に 着かず
むしろ 主(ヤハウェ)の 教え(トーラー)を 喜びとし  (2)
 昼も夜も その教え(トーラー)を 思い巡らす
その人は 流れのほとりに植えられた木  (3)
 時が来ると実を結び
その葉は枯れない
 行なうすべてが 繁栄をもたらす

悪しき者は そうではない  (4)
 彼らは 風が飛ばす もみがら
悪しき者は さばきの前に 立ちおおせない  (5)
 罪人も 正しい者の 集いには                
主(ヤハウェ)は 正しい者の道を 知っておられる  (6)
 しかし、悪しき者の道は 滅び去る
     
なぜ 国々は 騒ぎ立ち  (2:1)
 人々は むなしく 思い巡らし
地の王たちは 立ち構え  (2) 
 支配者たちは 結束して
主(ヤハウェ)と 油注がれた者(メシア)に逆らうのか?
 「さあ かせを砕き  縄を 切り捨てよう!」と  (3) 

天に座す方は それを笑う  (4)
 主(アドナイ)は 彼らをあざけり
燃える怒りで おののかせ  (5)      
 怒りをもって 彼らに語る
「わたしは わたしの王を 聖なる山シオンに 立てた」  (6)
 主(ヤハウェ)の制定(布告)を 宣べよう  (7)

主は私に言われた
 「あなたは わたしの子
わたしは きょう あなたを生んだ
 わたしに求めよ  (8)   
国々を あなたに受け継がせ
 地の果てまで あなたのものとする
あなたは鉄の杖で彼らを打ち  (9)
 焼き物のように粉々にする」

それゆえ今 王たちよ 悟れ  (10)   
 地の支配者は 教えを受けよ
恐れつつ 主(ヤハウェ)に仕え  (11)     
 おののきつつ 喜べ
御子に口づけせよ  (12)   
 怒りを招き その道で 滅びないために
怒りは 今にも燃えようとしている
 幸いなことよ すべて彼に身を避ける者は

翻訳注:
・詩篇1篇は「幸いなことよ」で始まり、2篇も同じ言葉で終わることから、本来ひとつの詩だったと思われる。意味の上でも、このふたつをセットにすると聖書全体の要約が見えてくる。
・1節の始まりは、原文で、「幸いなことよ。その人は……」となっており、それは3節の終わりまでかかってくることば。一方、3節の始まりは、「彼は……」ということばで始まっている。
・2節「その教えを思い巡らす」とは、メデイテーション(黙想)の生活を指す
・3cは原文で「彼は、行なうことすべてにおいて、繁栄する」となっているが前文からのリズムを生かしてこのように訳した。
・2篇1節b「むなしく思い巡らす」と訳したのは、原文で1篇2節b「その教えを思い巡らす」と同じ原語が用いられているため。
・2篇4節の「主」は主人を意味するアドナイ。7節aの「主」は主の御名ヤハウェ、7節bの「主」は代名詞の「彼」という使い分けがされている。

ヘンデル作「メサイア」第2部
「なにゆえ、もろもろの国びとは…(『詩篇』2:1-2)」 アリア(バス独唱)

「われらは彼らのかせをこわし…(『詩篇』2:3)」 合唱

「天に座する者は笑い…(『詩篇』2:4)」 アコンパニャート(テノール独唱)

「おまえは鉄のつえをもって…(『詩篇』2:9)」 アリア(テノール独唱)